組織とか、なにかに属するために、
自分の核となる感覚を感じないようにしている方って多いのかな?
って思います。
自分の意見を言っちゃうと、ほかの人との違いに気が付いちゃうから
あえて蓋をしているのかもなのですが、、、
でも、
自分の核となる部分に気づかないようにしていると、
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芯がしっかりしないからか、
なんとなく不安定になってしまうような気がしています。。。
個人を犠牲にしないと、組織に属したり、人とつながれないのか?
でも、
それって、しんどいつながり方なんじゃあないのか?
もっとシアワセに人と人がつながれるコトってできるんじゃあないのか?
と思う今日この頃、
みなさまいかがお過ごしでしょうか?
ワタクシ、
結構マジメなんでございますのよ。おほほ^^
そんなワタシの疑問に
まさかの戸次師匠(旦那ちゃんの師匠)がお答えくださいました~。
★戸次師匠は、ワタシの結婚式で司会をしてくださった方で、、、

教団のエライ方だったりします。
(ワタシからすると、愉快な旦那のお師匠さんなんですけどね、、、)
真宗大谷派(旦那ちゃんの宗派ね)の機関誌のおける
高畑勲監督(「火垂るの墓」とか)との対談から、、、

日本人の精神構造の中にある「和」に関して、、、
意見の対立が生まれたときに、いがみ合わず「和」の精神で話し合って解決するのはよいのですが、日本人の場合に問題なのは、ともすれば「和」を尊ぶがあまり、最初から異なる意見が出ることを抑制してしまう傾向があることです。
全会一致主義で、一致できないものは仲間外れにされてしまう。。。
ワタシの、集団にたいする違和感ってここらへんにあるのかもしれません。
ワタシは思ったことを口にするタイプなので、
周りの空気をよんで、なんとなく様子をうかがうことが暗黙の了解的な集団では浮きまくりです。
まあ、そんなとこには顔を出さなくなるのですが、、、
でも、
空気をよんで、なんとなく、
空気のおもむくまま、、、
結局 どの意見が採用されたん?
みたいな集団の方が多いよう気がします。。。。
一人づつ話をするとそれぞれ違和感があるみたいなんだけれど、
自分が責任を負いたくないからか、なんとなくでとおしちゃう。。。
これって、結局だれも望んでない方向にコトが進んじゃうことがあるんじゃあないかな?
個人が自分を大事にしつつ、
お互いを大事にしたうえでの「和」がいいよなぁ~
って思います。
これって、そんなに難しいことじゃあないよね?