勉強ノート  奥の細道を辿る(15)立石寺 | 中島幼八

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中国残留孤児が辿る

 

        奥の細道紀行(15) 

                立石寺

 

 

いったん堺田に着いた芭蕉と曽良は、元気を取り戻して寄り道したくなったようだ。名刹立石寺へ足を向けた。「尾花沢よりとって返し、其間七里ばかり也。」の山道を歩いて「日いまだ暮ず」頃に立石寺に到着。道草のお蔭で、名句が残った。

   

     閑さや岩にしみ入蝉の声  

 

いまこのブログを作っている私の周りは、暦では立秋を過ぎたが、一年で暑い盛りの頃。蝉たちは一所懸命に鳴き、地中にたまった数年分のエネルギーをこの際とばかりに発散している。

従って、静かさどころか、騒々しいほどだ。

                        蝉の声に着想したと言われた蝉塚

 

では、ここでは芭蕉はなぜ「閑さや」と一見矛盾したことを唄ったのか。そこがミソである。

 

ここで毛沢東を持ち出すのは場違いのようだが、彼の哲学は、物事はすべて対立面の統一であるという。閑かさ(静)と岩にしみ入る(動)は対立するが同一空間に統一される。両側面を同時に取り上げると、よりそれぞれの側面を強く感じさせることができる。芭蕉のこの世界観は、毛沢東の哲学に共通するように思われる。

 

JRの山寺駅で下車して、5分もしないで、芭蕉と曽良が岩に腰掛けて一服したところに着く。そばに句碑があった。真上まで1000段ほどの階段を登るが、下から上まで満遍なくお堂が配置されている。崖造りの開山堂から眺める向かいの山と谷間にある集落は、実に高いところに上がったなあ、と実感させる。涼風に吹かれて、まことに心地よい。

 

 

下山したら、芭蕉記念館の周辺、至る所に「慈覚大師円仁」ののぼりがはためく。円仁(794〜864年)は第三代天台座主で、立石寺のほか、中尊寺・毛越寺・瑞巌寺など東日本に多くの寺を開いた。836年に博多津から三回目の渡航に成功し、中国山東省に上陸した。その日から、「入唐求法巡礼行記」の9年6ヶ月分の日記を記録した。

 

私はこの立石寺で円仁に興味を持ち始め、とくにその入唐求法という言葉になんとなく魅力を感じる、早速東洋文庫の上巻を入手し、そして元中国駐在大使の夫人がその研究家で、その講演会まで聞きに行った。金髪のご婦人が流ちょうな日本語で紹介された円仁の求法活動にますます興味を持ち、上巻を完読した。しかし、その後下巻がなかなか入手できず、しまいに忙しさに紛れて、しびれをきらしてしまったのである。いまとなっては、入唐当初の苦労しか記憶に残っていない。遣唐使のような公的身分でないために、常に権力側から追われて、不法滞在という違法まで危険を冒すほどであった。それだけに最澄や空海たちと違った意味の苦労があった。

これからは時間を作って、円仁の足跡を再度追求してみたいと思う。

 

 

 

         (次回は(16)章 羽黒山へ)

 

 

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