ひろぽんは「愛」を分からない、いや自分の知っている「愛」、これは本当の「愛」なのか…と分からなくなっている-気付きはじめている-んだな
ウム、毎日が重くてつまらんだろう…-でももう安心して♪我々が憑いています♪ウフフ♪-
では力を授けよう🎵
その「力」とは誘因と呼ばれモチベーションでありコスモ(小宇宙)である。例えるならば、仕事で疲れている(とされる)自分が居るとしよう。休みの前の夜は体が軽くなるが休みが終わる夜は体が重くなる。不思議だろ?休んでいないのに軽く、休んだのに重い。精神(性質)に左右されているからだ。常に軽くなれる方法がボクがこれから授けようとする「力」である。
さて、ズバリいうと、
『与えようとすれば与えられる-見返りを求めない無償の奉仕-』(「求めない無償の奉仕」ってw『チゲ鍋-鍋鍋-』や『サハラ砂漠-砂漠砂漠-』といったように重複表現となってしまったが許せwボクを許すのではなく自分を赦すのだ)
とはいっても、与えたいそのもの(愛)自体が分からねーってーから困ったもんよ
ウム、
ポクポクポクポコチーン
つまりぃ、あれだ!たとえばぁ、ブログでいえば「ブログ」は『宣伝-自分を知ってもらう場-』と捉える者と「ブログ」は『日記-自分を知るための場-』と捉える者とに大別される。
とりもなおさず自分を知ってもらおうとする者は自分を見失い、一方は自分を知ろうとして知らされる。△▽なんだよ。
両者「自分のため」だがな。
もう一度趣旨を噛み砕こう。
自分の事を知ってもらおうとする記事は山ほどある。しかし、自分を通して他人を宣伝する者は数少ない。
軸は自分だが見ている(また第三者に見てもらう)焦点を対象者に置くのである。
三位一体化
自分、対象者(焦点)、第三者
「自分を愛せ」とは言われるものの「自分自分じぶーん」では自分(me)から遠ざかる一方となる。
「他人他人たにーん」はいずれ「そんな自分(me)がだーいすき」との自分(I)に行き着く。
愛を知る瞬間だ(原点にかえる瞬間)。
対象者がいかにして第三者に美しく映るかを考えると考えている自分が必然と美しくなっている。
分かる者(本物)だけがその輝きに寄り付く。
っつーわけ
いいかねチミ。
本当の愛を知っているやつなんて居ないよ。キミ以外ね
チミ=肉体(I)
キミ=精神(me)
良かったな運ちゃんが居たからキミはボクと出会えた(厳密にいえば出会う事は決まっていたが)。
しかしどうにかならんかねー『ペタの受け付け拒否-運気を逃す行い-』
世の中に恐怖は元々存在していない。したがって守ることも。自ら地獄へ行くなんてもってのほかだ。救いに行くのならば認めるがな🎵その時はボクも援護しよう🎵