ボクが小さな頃、家の側に神社があった。学校の帰り道によくお祈りをしたものだ。
「もし今このボクの声が聞こえているのならば(聞いている前提であった)姿を現してみろ。…フッフッフ。出来んだろwバーカ」と(額の印は得である)。
そして嫌な出来事があった日にも神社で神様を召喚しようと「姿を現せ」と励むも姿を現さない様に苛立ち、後にボクの祈りは廃れていった。「いつまでも無視してろバーカ」と。反抗期である。
いわば、常に″得よう″としている盲目者であった。
そんななか、ボクは7歳の時に二度UFOを見たことがある。
昼間公園で一度と夜、暗い山道で一度である。
当時のボクは『テレビ-★-』の影響で「UFOを見てみたい」と強く望んでいたため、見たとき感激したのを覚えている。いわば見たのではなく見せられた盲目者であったのだ。
あの時は「信じたから見れた♪」と喜んだ。しかし実は強引に見たことは知っていた。
昼間見たのは風船であって、夜見たのは車のライトが自然現象で反射して空に映っていただけということに目をふせていた。
信じ続けると壁にあたるが、その壁を乗り越えたつもりで終わらせるのはよくない。
しっかりと壁に向き合い真実を締視することが大切である。真実が分かると、つまり壁に乗り上がると、また違った景色が在るからだ。上記の例でいうと、ソレは「自分の目で見ているのかそれとも見せられて見ているのか」という真実(発見)である。
見せられて見る(単体の)景色は綺麗だが一時の美しさにすぎない。だが『見る』景色は周りに附随するモノをも綺麗にする。
ソレが神の目である。召喚完了!
ここからが本題だ。
ボクが小さな頃、公園に自転車で紙芝居を見せにくるおじさんがいた。決まって牛乳を持ってきていた。
紙芝居は決まって桃太郎(話が早く終わる)である。
話が終わるとそのおじさんは「次は手品を見せてあげよう♪ここからが本題だ」と続く。決まって女の子だけである。
女の子数人だけを林の中に連れていき3分30秒ほどで帰ってくるのである。
あのおじさんはどんな手品をしたのかを目撃者に聞いても誰も答えられなかった。ボクはあの者は相当なゴットハンドなのだろうと推測した。
それからしばらくして当時の手品を見たことがある一人の女の子が口を開いた。
「紙芝居のおじさんは『これからこの牛乳をイッキ飲みしてちんちんから出すよ♪』といってすぐに出した」と。
ウム、★による☆を利用した神業だ