あなたはどっち? | 此処へ来たのはそなたの魂の上昇を意味する!汝意思することを行え!!

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二元性をよく見つめられる《塲》となることを願っている記事です





『山羊』=「私は強く巧みに″生きている″」と認識している者

『羊』=「私は″生かされている″」と認識している者



どちらが良い者でどちらが悪い者だということ示しているのではない。

「『同じ
幸せ』でも『羊と山羊』の幸せの実感には差があり、またその実感に見合った『結果-現象-』が反射して宛がわれている」
という『真実-方舟-』の存在をあなた自身が知るには、
あなたは今すぐに『悪いとする人を許してみようとする事と、悪いとする人を信じてみようとする事-外の見える世界の分野において分け隔ての心を持ってはならなず、全ての人間の幸せを願う-』をしなければならない。舟に乗るにも自分の性質をよく知っておかなければならないからなのである。



″生かされている″と認識して生きている者の特徴は文面においては「誰々が何々を私にして″くれている″」という言葉が頻繁に使われている。

″生きている″と認識して生きている者の特徴は「誰々が何々を私に″している″」が多い。

例:
「妻が私に料理を″作っている″ので外食をあきらめた」
「妻が私に料理を″作ってくれている″ので外食をあきらめた」

両者「あきらめる」という『マイナス磁気-黒魔術(読んで字の如く『呪文』)-』を発していながらも、後者は『妻の料理も嬉しいし外食も楽しみにしていた』という心で、前者は『妻の料理も外食も″特別楽しみにはしていない″どちらかといえば無い物ねだりの外食に重きを置いていた』という心である。

『この違い-隣に居る者が羊か山羊が-』を見抜けないと『黒魔術-変動地場-』の影響があなたにとっては悪影響を来す事になる。つまり『普段の行いが悪い-人の幸せを願うには人の特徴を知らねばならない。人の特徴を知るには自分の『あらゆる面-天使と悪魔-』を知っていなければならない(『相手の立場を優先させると自分が分かる)-』と『山羊が羊か』の違いは見抜けない。したがって自分の知らぬ間にも他人にマイナス磁気を発し続けている事になる。ひいては見抜けない者同士が磁場を下げあっている事となっている(元来は黒、白、隔てなく『黒魔術-呪文-』は存在せず全てが白であるということ)。だからボクは『山羊をゾンビ』と呼ぶ。誰かもいう「おもしろきこともなき『世-我-』」である。


現在ビジネスにおいて成功している経営者をボクは成功者とは呼ばない。
ボクにいわせると『昭和の発想-平成の発想-に生きる者』だ。何故なら『今を″なんとか″生きる』を永らえようとする亡者だからだ。『″なんとか″』というからには実に『巧妙で美しい-合法的な-』技を繰り出す。彼らは偽善も厭わない。ここでも念のためにいうが、ボクは「偽善が悪い」とは思っておらず、偽善者を見つけても嫌気もささない。ただし『偽善をして-正義に化けて-までも苦しんでいる姿を見ているのは嫌で善いことをしている人だと信じた者を混沌の世界に陥れる事はもっと嫌だから『大元-★-』に刺激を与えて気付かせようと試みる。その「善いことをしている人だ」と信じた者が混沌の世界に行くことを防ぐ為のボクの行動が『偽善者を取り囲む者-「善いことをしている人だ」と信じた者(☆)-』にどう映るかまでは考えていない(考えている♪)
』。


ボクの偽善者を見抜く方法の一つは″「有難うございます」「感謝します」「済みません」という言葉を発するタイミングを全体の文脈と照らし合わせて鑑みる″である。要するに『言葉の意味を知っていてその言葉を使っているのか』あるいは『同調させ秩序を保つためにやむ無くその言葉を使っているという事を知って使っているのか』を見るのである。

「最後まで読んで頂き有難うございます-「次も読んでください」といった卑しい心)-」は『本当に有り難いとは思っていない場合に発しても″相手に違和感を与えない″曖昧な言葉』である。しかし彼らはこのことを知っていてこの言葉を使っている事が『偽善』であるということを知らない。

『隠しきれている-善しとされている-』と思っているのである。

ある種の礼儀だとして″意味を知らないでこの言葉を使っている″ならばただの『盲-偽善者の奴隷(☆)-』である。



本来『有り難い-感謝-』という言葉は存在しないし、必要のない言葉であった。

地球が有り難いと感じている者で埋め尽くされていたら当の然必要のない言葉だからだ。ではなぜ存在しているのか。

ある人が意識内で「これは有り難い」と「これはそれほど有り難くない」との隔てが生じた事から発祥され、その意思を率直に伝えるためとされた「有難うございます/感謝します」なのである。

《失って気づく有り難さ》

もう一度いうが、自分という存在が有る以上『本来全て有り難い-0-』である。




『「私はできる人間だ!」と自分を鼓舞して生きる事』を行動の源とすることは一つの″知恵″であり、経験から培ったストレスの費用を如何に抑え目標を達成させらるかを熟知した″技″である。その事から自分に自信を持って行動することは『正しい-良い-』行いで間違いはない。

経営者に多い特徴は「自分が生かされるのではなく自分を筆頭に周りを生かさなければならない」とする者が多い。『生きている』に誓いをたてて生きる者である。

しかし本来上に立つ者というのは「生かされてここまで来れた」としてきた者でなければ理に沿わない。ではなぜ『生きている』とする者でも上に立つことができるのか、また「成功者」と呼ばれるのか。

『真の成功』ではないからである。


成功とは生まれてきた意味を知り、如何に生まれてきた意味に忠実になれるかである。


人の上に立つことが生まれてきた理由ではない。


あなたが『真実-隠された謎(愛の意味)-』を知る(経験する)には「如何に愛されようと努める」ことよりも「如何に愛せるか」と努めた時、身を持って知る事となるだろう。



最後に…

「自分が死んでも良いから他人に幸せを」と真剣に願ってみたとき…「§死なすわけにはいかない§」と『神-自分の無意識-』が始めて『口を開く-チャンネルが一致する-』だろう。


ゴメーンw言っちゃったw🎵
(ノ´∀`*)