先月ブログで紹介させていただいたイギリス映画「異人たち」、まだ公開していることが分かったので渋谷の映画館に観に行きました。やはり日本語字幕のおかげで登場人物のセリフやストーリーの細部までしっかり理解することができました。主人公のカミングアウトのシーンが秀逸だったり、山田太一へのオマージュなのか日本のウィスキーが出てきたり、と新しい発見はあったものの今日は再び同じ批評ブログではなく映画を観に渋谷まで出て実感した、様変わりした光景や一方、あまり変わらずホッとした日本の情景を。

 

映画を鑑賞したのはロフト横のシネクイント。「異人たち」は他の街の「TOHOシネマ」系の大型シネコンプレックスでも上映してたのですが、小規模映画館好きな私、シネクイントはこじんまりとしていた記憶があるのでここにしました。ゴールデンウィークの谷間のレイトショーなのでそれほど混んではいませんでした。映画館に足を踏み入れた瞬間やっぱり来て良かった、とタイムスリップしたような昔の映画館の雰囲気。どこの映画館だったか記憶にないのですが、若い頃に、やはり渋谷の小規模映画館に、このブログでも紹介したゲイ映画の古典的名作、ウォン・カーワイ監督「ブエノスアイレス」を隠れるようにして見に来た記憶が蘇りました。

 

アメリカではもうあまりお目にかからなくなった上映映画のパンフレットを販売していたことに特に懐かしさを感じました。「異人たち」のパンフレットも当然販売していて早速お買い上げ。お気に入りの好きな作品のパンフレットを買ったときのこのドキドキ感は、映画好きにとってたまらない経験です。また「異人たち」のポストカードやイラスト入りコースターも無料配布していてお宝を発掘した気分でした。上映が終わって余っている映画のポスターを「どうぞご自由に」と無料配布していたり、デジタル時代でもパンフレットのような紙媒体や小物グッズが脈々として残っているところはいかにも東京だなと嬉しい限りです。

 

東京で観る名作映画はまた格別

 

アメリカで映画パンフレット販売を見ることはほぼない

 

この日の観客層や映画解釈でまた日本らしいなと思うのは外国映画のマーケティングの仕方。字幕がどうこうということを超越して、日本での外国映画の公開時には現地とは全く違った色をつけて映画を宣伝することがあります。例えば、この映画、アメリカやイギリスなど英語圏では、硬派でミステリアスなヒューマンドラマ、日本人作家原作のイギリス人監督というエキゾティックな作品として紹介されていました。NYで見た時は、男も女もゲイもストレートも、一応にいて、特に誰かを主なターゲットにしたとは思えませんでした。

 

しかしこうして実際に日本での取り上げられ方を見ると、この映画も日本独自の解釈を施して宣伝しているなと思いました。映画のパンフレットとか、下の写真のピンク色の絵葉書とかコースターなど配られているグッズとか見ると女性観客を意識していることがわかりました。それに伴いアメリカで観た時にはあまり目立たなかった、女性客が結構多かったです。郷愁とか懐古という作品のテーマに加えて日本独自に「赦し」や「癒し」、そしてBL的というべきなのか「あまり知られてないハリウッドイケメン発掘」の要素を入れてきたみたいな。(ハリー役のポール・メスカルは日本人女性に人気になりそうな上品な顔。)

 

いい映画は観た人それぞれの鑑賞の仕方があって当然なんですが、こういった光景を見て、いい意味でも悪い意味でも、日本のガラパゴス的ノスタルジアを感じました。パンフレットの中身はあまり作品とは関係ないサブカル雑考感まで満載で、劇中に使われた80年代の洋楽への見解とか、主演の一人ポール・メスカルに魅せられた批評家さんの”俳優推し寄稿”とか入っていて考察が面白かったです。この手法、日本人受けしそうなルックスの新進気鋭のイケメン俳優が出てきたときによく見ます。もう1人の主演、アンドリュー・スコットの方がキャリアのある俳優なので、彼の方をもっと言及して欲しかったのです。しまいには、大林宣彦監督版で両親役を演じた片岡鶴太郎と秋吉久美子を誌上対談に引っ張り出してきてしまったりと、日本語という壁を最大限に発揮して表現の自由を謳歌しているなと思いました。一部の映画関係者は、大林版「異人たちの夏」が、アンドリューによってゲイムービー化していると指摘していましたが、こういう日本的なガラパゴス的見解は逆に、アンドリュー版「異人たち」に勝手な解釈を付け加えることになっているのでは、などと考えてしまいました。別にいい悪いではないのですが、海外で観た映画をもう一度こうして日本で見ると、色々な発見がありました。

 

ピンクのイラストはこの映画に対する日本的期待や解釈を端的に表している気がしました

 

「異人たち」を日本語でしっかり理解しようとして映画館で、変わらない懐かしい日本での外国文化咀嚼プロセスを見て、懐かしい気分に包まれた一方で、映画館を一歩出た渋谷の街は、いつの間にか変貌した東京の様子を映し出しているように思いました。

 

ずっと日本にいて渋谷の変遷を見ていると気がつかないかもしれませんが、久しぶりの渋谷の街には圧倒されてしまいました。特に、渋谷駅改札からスクランブル交差点、センター街のあたりまで、この一体が何かコンサート会場なのかと思うほどの人混み。一見したところ、ほぼほぼ観光客や旅行者という光景。そのうち7割くらいは外国人に見えます。ニューヨークのタイムズスクエアも世界中の観光客が集まりますが、渋谷が面白いのは、駅前にバスターミナルがあって大勢の通勤通学客がバス待ちをしていたり、地下鉄やJRから井の頭線に向かう日常の生活をしている人たちの導線が加わるところです。昔は、もう少し日常使いの人たちと観光客が調和していたように思いますが、バス待ちや電車乗り換えの人たちはまるで感情がないかのように、あふれる観光客の群衆に目もくれず、まるで存在を無視しているかのように、器用に小走りで目的地に向かっていく姿が印象的でした。これでよく毎日怪我人や死人がでないものだと感心します。

 

 

映画の後、井の頭通りを銀座線のホームを目指して歩いていたところ、スクランブル交差点付近に人だかりができていました。テレビの撮影でもしているのかと思うくらい、通行人がスマホを向けていました。高級スポーツカーが何台も止まっていて、ギャラリー化していました。すごい爆音を鳴らしつつも、観光客の写真撮影に応じていましたが、あのあたり、新宿や中野方面に行く京王バスの経路にもなっているので、当然大渋滞が発生しています。その合間を走る10台くらいのゴーカート集団。カオスどころか地獄絵図。その横で周辺ビルの軒先には泥酔して寝転がる若い男性が何人かいたりなんとも異様な光景が展開していました。久々にみた「逆カルチャーショック」でした。

 

 

 

コンビニで買ってきたと思われる缶ビールで路上飲み会するアフリカ系の人たちや、背が高く華奢なモデル風の金髪白人女性グループ軍団もたむろして自撮りし続けてたり、前述スポーツカーのどの車も運転席に座っていたのは外国人風の若者(中東系っぽい感じでした)であったりと、一体ここはどこなんだろうと思うくらいでした。こういう人たち旅行者には見えなくて、日本在住の外国人のように見えました。ニューヨークのタイムズスクエアの光景とも違う、なんというか独特の雰囲気で、これが渋谷の魅力なのでしょうか。学生時代〜社会人初期を東京で過ごしたので人並みに渋谷には来ましたし、代々木公園付近に住んだこともあったのですが、この変貌ぶりには気がつきませんでした。私が学生の頃は、夜の渋谷に行くとチーマーに金を巻きげられるなどどまことしやかに語られて、怖い街というイメージがありましたが、今の渋谷もそれはそれで、恐ろしい場所だと思いました。

 

映画の話をしようかと思いきや、久々に訪問した渋谷で逆カルチャーショックを受けた話になってしまいました。変わっていく風景と一方で変わらないノスタルジアを感じる文化的な部分、これはあまりニューヨークなどアメリカの街では見られない東京独特な情景だと思いました。