某テーマパークで演者の追っかけをしているとある女性が、鍵アカに色々褒められたものではない晒し行為や愚痴を書いている人(どうやら同じ人を応援しているようだ)がイベントで同席した際にこちらを睨んでいた。彼女が怖くてとても困っている。こんな状況が続けば好きなものを今までのように好きでいられなくなるかもしれない。だからブログで彼女を怪物と表現し、やってる事をスクショで晒します。皆さんこれから私がどうしたらいいかリプを下さい、とツイッターで拡散した。

 

さて、これはどちらが悪いのかと言われれば、私がそのテーマパークに明るくない部外者だからというのが大きいけれど共倒れが一番平和な案件なのではと思ってしまいました。

 

鍵アカのツイートを名前は消してスクショで晒し、服装の特徴なども記しながらアカが特定できる質問箱のIDをあえてぼかさずそのまま。あれあえて巧妙に分かるように書いてるのですよね。シンプルに性格悪い子は普通に晒します。そして性根の歪んだ人ほど「うっかりしてました」で済ませられそうな所を消さずにおくのです。嫌がらせにも性格が出ます。(私はこのブログで対象が絞られやすい文章を書いたのは初めてですが、もし鍵アカウントについて書く事があるとしたら分からないように書きますね。少なくとも文章は意味は同じでも文体を違う形に変えますし、IDが分かるスクショを貼るなどもってのほかだと思っています)

 

やり方からして「彼女がどれだけヤバイ人かを晒してやる」という私怨が強い印象でした。それはあのブログで言われている女性の悪癖と全く同じ理由で「使命感で言ってるならああいう個人攻撃の形にはならないだろう」に尽きます。お似合いじゃないですかアンタら。あの件で友達に見切られたと騒いでいましたが、ならばその晒した相手と仲良くなればいいのにと思うくらいに情報リテラシーの程度が似ていると思います。

 

しかもその彼女がどれだけヤバイかを散々熱弁しておきながら「私の周りの仲間は一緒に戦ってくれると思っていた」とはいかに・・・流石に見通しが甘すぎます。友達の意志も確認せず勝手にリングに上げておいて、戦う気は無いと断られればまた被害者顔。ブログ主の誤解を招く連ツイのせいで、友人達は梯子を外した裏切り者みたいに思われるわけでしょう。友人達が何か悪い事をしましたか?かわいそうです。

 

「私のやっている事は正しいのだから皆も同意してついてくるべきだったんだ。共感すべきだったんだ。それなのに梯子外されるなんて」みたいな輩が友達だった人からも煙たがられるのは必然だと思います。自分の正しさを信じきって乗り気じゃない人までをも間接的に戦争に巻き込む人間は普通に迷惑でしょうから。

 

というより、あらゆるものごとにおいて「己の正しさを一片の疑いも持たず信じ込む人間」のやらかす事は怖いのですよ。しかも信念と言う形でなく私怨が混ざると目も当てられない醜悪なものになる。そしてその手の人ほど「主語を大きくする」のです。「最初は私が傷ついたんだけど、私だけの問題じゃないのよ。改善していかなきゃ。これは正しい主張で、正しい行いなの。だからみんな協力して」と。はっきり言ってこういう手合い、それこそ夢の国に限らず現実世界でもちょっと扱いが難しいタイプです。縁を切る事になったお友達と、誰より演者の方に同情します。

 

今回はTLにRTが回ってきたので目に入った某テーマパークの話題でした。晒された方に同情の余地は薄いとはいえ「こういう手合いは怒らせると暴走して加害者側になる」という点で、ブログを書いた人も性質が非常によく似ている事に皮肉を感じました。ブログの主は正義感でやっているのかもしれないけれど本当に共倒れが平和な気が致します。鍵アカの内容を晒す愚を冒すくらいならば個人同士で解決するまで話し合えばよいのに。誰かと誰かの問題をまるで全体の問題かのように大ごとにされると演者さん?が一番気の毒なのは確かだと思います。あの界隈を知らない身でもそのくらいは想像できます。部外者ながら、少しでも早く収束する事を陰ながら願っておきます。

「あの女優さんを擁護した人達は「コミケってそんなに敷居高いん?」「オタクのくせに」とか言うけど、女優さん本人じゃなく差別的な感情を持つ人達に安易な気持ちでコミケに来てほしくないから皆闘ってたんですよ。それだけは忘れないでください」のような内容のツイートがRTで回ってきました。

 

自分がオタクの身で言うのもなんですが、正直言うと「新しい詭弁出してきましたね」としか思えませんでした。(「オタクのくせに」は確かにちょっと腹立つけど)

嘘付け、あの騒動はどう見ても女優さん本人に来てほしくない叩き方だったでしょうが。

 

そもそもね、ふ-んやっぱり炎上させた人達は「闘って」たんですね・・・・と。闘って潰した自覚はあるんだ。へえ。
とある女優本人には憎しみが無いのに、受かるかどうかも分からない=来るかどうかもまだ分からない人達に強烈なアレルギー反応起こして女優と闘って潰したと?ふーん。

私達は勝った!がんばった!コミケを守った!って?

 

へえ。

 

やっぱり大義名分のある義戦とでも思ってるんですね。痛い。果てしなく痛い。
叩きや炎上を正義のために立ち上がったような面で正当化する人達って必ずこういう後付の詭弁立てますよね。

 

「売るって言葉は使ってはいけないのに無知な女!頒布でなければ!」→コミケは「即売会」「販売」使ってた(参加者の作った思い込みルールでしかなかった)に始まり、他にも参加者側の言い分の矛盾点は散々出尽くしているし、もうあの女優への叩きと潰した事を正当化する詭弁には飽き飽きしてるんです。

 

何よりも「規約違反の有無やコミケのありかたの定義から鑑みて彼女の参加を認めるか否か」に関しては、参加者が徒党を組んで裁くのではなくて、れっきとした「運営がやる仕事」じゃないですか?果たして参加者が暴走すべき事だったのでしょうか?

 

とある女優と「闘った」人達がどれだけ自分達の正しさを妄信して正義面しようと、規約やコミケのあり方とやらを知り尽くした「運営」が決めればいい事を、何故かいち参加者達が先んじて妙な使命感出して叩きまくって潰したのは事実でしょうに。後付の正当化がもうダッサいことダッサいこと。

 

自分の落ち度だと思った部分を謝って参加を取りやめた女優と、自分達の思い込みや間違っている部分を何一つ認めず次々と論点を変えていつまでも潰しを正当化し続ける人達。そりゃネット民以外は後者を苦手に感じても何一つおかしくないでしょうに。
あと順序が逆ですよね。参加者やオタクにどのような興味も無かった人達にまで、この件で分別のあるオタクはともかく視野の狭いキモオタの部類に入る人達は怖いって事がバレてしまっただけ。今回の事での自分達のイメージ悪化まで女優のせいにしない方がいいと思います。

少なくとも、あの女優は自分のイメージ悪化を「自分の責任」とし、オタクのせいにはしていないのだから。

 

以上、いちオタクの独り言でした。

 

 

先日、死ネタは注意書きを予め表記した方が良いのか、しない方がよいのかが話題になっていた。

 

死ネタを読むのが割と好きな私個人の気持ちとしては、腐向け作品に腐向けとタグ付けするのと同じ感覚でつけられているもの(検索で探せるし、また苦手な人は避けられるし)だと思っていたので、論争が起こるほどの事かと不思議に感じる。しかし、死ネタを書く側の人々にとっては、どうやら違うらしい。

 

本当は付けたくないのに、自衛の為につけているのだと。こうるさい連中との揉め事が面倒だからつけてるだけで、死ネタとはキャラが唐突に死ぬのが醍醐味だから、本当はつけたら意味が無いんだと。そう感じている人も沢山いるのだそうです。そして、その(予期せぬ唐突な死という)醍醐味を好む人も沢山いると。

それは確かに正しいのかもしれないな、と思う。物語を書くうえで欠かせない、美学のようなものは作者の方それぞれに必ずあるはずだから。

 

それでも、これは一次創作(完全オリジナル)か二次創作(公式が存在する)かによると思う。一次の場合は作る人こそが全知全能の創造神なので気にする必要は全く無いけれど、二次でしかも公式では存命のキャラだと意見が分かれるかもしれない。

 

つけたらネタバレになって意味が無いからつけないよ!と考える人も、例えばオバケ屋敷の表記が無い催しものに興味本位で入って唐突に恐怖の連続に遭遇したら、少なからずショックを受けると思うんです。「オバケ屋敷って書いてよ」と。

 

また、何の表記も無く、普通の一般向けファンアートと思って読んだらR18のがっつり腐向けエロだったりしたら?血しぶきMAXのリョナだったりしたら?違和感はあるよね。

 

これらの温度差は創作に限ったことじゃなく、私が自分の好きなホラー画像やグロ画像をプロフィールに明記もせず記事で前置きもせず、要は”何の注意も無く”バシバシ上げ出したら「こいつ無神経だな」と思う人と「クールだぜ。俺は得体の知れないドキドキを待ってたんだ」と思う人で両極端に割れると思うのですけれど、社会的には前者の方が圧倒的に良識があるんですよ。後者がいくらこのやり方が好きだと叫ぼうが。

 

なので、二次創作で「公式では生きてる」キャラの死ネタに頑なに死ネタ表記を入れたくない人は、腐向け作品に腐向け表記せずグロ作品にグロ表記せずリョナ作品にリョナ表記しない人と本質的には同類だと思う。

 

一次創作はまっさらな状態で読むものだけど、二次創作は基本的には最低限の情報が分かった上で選ぶものなんだよね。だからこそジャンルの表記や腐向け表記、カプ表記とか色々するわけで。見る側も地雷を自分で弾く努力をするわけで。その安心感は、ないよりはあった方が親切かもしれない。(決して「べき論」ではないです

 

好きな人の事も考えろ!!は正しい。創作だもの。好きなように出来れば一番よい。そのほうが素敵なものが作れるはずだから。

ただ、おそらく読み手にも普段から苦手なものを弾く努力をしている人は多いと思われます。オバケ屋敷苦手な人が遊園地でオバケ屋敷を避けるように。つまり、分かって入っておいて文句を言うな!!と言えるのは、分かるようにしていた場合だけなんですよ。

 

というわけで、読み手にリスクを丸投げすることにもまた別のリスクがあるという事は、知っておいたほうがよい気もいたします。腐向けやエログロ・死ネタなどの表記に関しては、前述したような「こうるさい連中との諍いを回避するための注意書き」と考えるか「『お互い』のセーフティな領域に踏み込まないための平和的なお知らせ看板」と考えるかは、ものはいいよう考えようという事なのかな、と。私は後者の考え方が出来る人の方がより素敵だなと感じますが、こればかりは価値観の押し付けにならないようにしないとね。

 

・・・と、「自由」の意味を、色々と考えてみた日でした(*^ω^*)