ひさしぶりの更新という訳で、ここのところ 喉の調子が中々もどらない ぬうなんだけど、
それなりに、治まっては来たんだけど、すっきりした感じがなくてね。
一回、咳が止まらない時があって、すこし用心していた次第・・ 免疫力低下気味なのかもしれないなぁ こりぁあ 体力増強だな・・。
さてさて、めがね と あし(足の仕草) に惹かれてしまいがちになる ぬうなんだけど、
どうやって、「惹かれる」って感じを認識しているんだろう・・・?
フェチな部分は、誰にでもある要素ではあるから、その人、その人の 歩み方で、さまざまな感覚を獲得しているとは思うんだけど
それでは・・
ただ単に、キレイなだけでは どうだろう 動かないものに惹かれてしまうのだろうか、きっと それは、唯のキレイな「モノ」に過ぎないだろう。
おそらく人形の足は、ただのキレイな「モノ」だということだろう。
形の整った、 左右対称 な モノは 整然とキレイなのだけど、人には、奇異に見えてしまう。人を認識している 私たちは、複雑な容貌 (肌の質感、複雑に肌の隆起に、筋肉の質感など)に、その動きが加わって、さまざまな表情を見せる。
つまりは、人にとっての認識は、それぞれが 思っているコンプレックス的な部分だけを見て決めているわけではない。 むしろ、その表情、うごきの中に、想像がかきたてられたり、思いをうごかされたりしている。
いくら、キレイにしてみても、表情がなければ、キレイなだけの人になる。
キレイじゃなくても、素の表情が色どり豊だと魅力的になるということだ。
私たちは、けっこう 総合的に認識し、認知していく。
なんなく 当たり前に獲得してきた、いろんな感覚で、人は けっこう高度な感じ方をしていっている。
なのに、受け手に回ると、これが、一部分だけに、こだわってしまったり、それによって、自分が否定されてしまいそうになってしまう。
その表情が 豊かになれば、それだけ豊かな反応が返される。 容姿っていうのは、その媒体に過ぎないものなのかもしれないよ♪
そうすると、しあわせな出会いや、繋がりは、どんなものから、育まれるか・・・?
そこにこそ、近道っていえるものがあるような ないような・・・。
意識の上にのせないものは、一生 わかることはない。 認識は、できていても、認知しないと、わかんないのと同じさ♪
ふと 考えること ときどき やってみよう(*^ー^)ノ
そうそう、それと もうひとつ、人が知るっていうことは、自分の中にあるものの中でしか、わかろうとしていけないってこと。
それを、外のものと、比較して、繋がりや関わりの中から、感じとりながら、認識、認知を繰り返していく。 いろんな問題を解決していくには・・。