新しい年も、はじまり、短い寒い時期が、体にぐっと突き刺さりそうな空気。
容赦なくはじまる新年に変わらない時間が過ぎてくことが、もう幸せなのかもしれない。
さてさて、書いておかないと、「内幹を鍛える話」は、なかなか進まないから、すこし書き出しておこうとしている訳で・・。
若い頃、どうしても手にとれなかった映画が一本ある。相当の時間をかけても見ようとできなかった作品が・・。
古いフィルム映画のような、その映像の中に描かれているのは、ただただ、人のえぐい部分。
アイスランドの歌手で、表現者として興味の湧く逸材の彼女「ビョーク」の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」
人は、陥りそうな「危うさ」を、常に持っている。その映像に中には、それが描かれているように見える。
その原点は、産まれ落ちた時から、持っているものだったと思われる。
人のみが、その感覚が未成熟なまま、産まれ、人として生きるためには、まず、それぞれの感覚を開拓していくことが、必要になってくる。ひとは、その成り立ち上、こんな歩みの中に放り込まれてしまう。それは、まるで、真っ暗闇の中を一歩一歩、歩みを進めるように・・ 。
だから、その一歩一歩は、本当に危うい。そして、その感覚を獲得する手段は、自分の中のものを動かして感じていくことでしか、できないものなのだから、なかなかの困難を極めていく。
それは、感覚をある程度獲得してからも、続いて行く。はじめて、やること。はじめて会う人。はじめて、遭遇する場面。人は、あらたなものを開拓していくことで、その足跡が自分の中で、自分を形づくっていく。
その、ひとりでは、真っ暗な道を、どうやって私たちは、踏み出していけるんだろう・・。
また、なぜ踏み出せないでいるんだろう・・。
産声を上げていた、ちいさい僕たちは、その手に、その声に、その温もりを感じていたことだろう。
疾うに、あたたかさを知っていたはずだけれど、どうやら、感じられなくなるには、訳がありそうだ。
時には、大きな勇気が必要な時もある。そんな時、必要とされる、このあたたかさ・・それを感じられる自分でいることなのだろう。
はじめの一歩で、知ってしまったことは、脈々と今も、僕らの体には浸みこんでいる。
僕らが大切にしていかないといけないものは、そんなところにあるようだ。
なにも忘れてはいない。複雑に絡んだ糸がまきついているだけのこと。
手を放さなければ、感じられる そのぬくもりを、感じないでいるのは・・。
(次は、人が感覚を獲得していく方法を、自分を知る一歩目として書いてみようかな・・)