多忙・ときどき・鬱 | /// H A I H A I S M ///

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あわてない、あわてない。赤ちゃんが「はいはい」するように、のんびりゆっくり進みましょう。

40代のオヤジに「ちょっとだけどなんだか憂うつ」といった気分が蔓延しているのは知っていたけれど、ひさしぶりに学生時代の同期と飲んでいる内にこんな話題になった。
3時間ほどわいわいと騒いで、1人2人と「お先に」と帰る人が出始めた頃である。

店に残った者同士、いろんな表現で自分の気持ちを伝えようとしていたのではあるが、要約すればこうになる。

「おれ、なにを目的に生きているんだろうかな。」

「何だよ、そりゃ。自分にはそんなことは考えないね。仕事も充実しているし、家族のために生きているって言う事だってできる。」と、中には自信あふれんばかりにそう宣言する者もいれば、「あはは、今は彼女かな。そりゃ自慢できるような話しじゃないかもしれないけれど、目的を見失って人生を棒に振るよりは活き活きとしている方がいいんじゃないの。」なんて言う者も出てきたり。

そんな話しまで出てきたものだから、その後、話題は大きくずれていって、さらに2時間ほどして飲み会が終了したのだけど。

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仕事や、家族や、愛人を人生の目的だと力強く答えた友人たちも、帰り道、酔いがほんのりと醒め始めることには、投げかけられた問いに対する自分の答えの違和感に、チクチクと胸を痛めていたのではないだろうか。

元気に答えることのできる人たちは、きっと人生の充実のほんのひとかけらを身近に感じたことを、その時には言葉にしたに違いない。今日の飲み会が、久しぶりの飲み会で盛り上がって、ちょっと充実した楽しいときを過ごすことができたように。

でもボクは思う。
「何を目的に生きているんだろうか」という問いの本当の怖さは、その問を自分に対して行う人にとっては、そして、ほとんどの人はそれを自分に対して問いかけるものであるのだか、何かを答えたところでその答えは決して自分にフィットするものではないものなのだ。

まるでこの問いは、最初から相応しい答えを拒否しているみたいだ。人生に対する違和感に気付かない内は決して思いつかない質問で、この質問が自分の前に提示されていることに気付いた時には、既に違和感にすっかり包囲されている。つまりその質問の罠からは逃れられない場所に来てしまっている。

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帰り道が同じ方向の親しかった友人と2人最後に残り、帰り道はすっかり寒いんだろうな、なんて話しながら、

人生はまるで、世間との違和感の連続だな。
歩いているうちに自然にずり下がってしまう靴下だとか、自然とたくし上がってしまうシャツを着ているようなものだよ。

改札口でようやく気付いたとしても、でも、もう着替えられないだろ?
靴下のせいでも、シャツのせいでもないかもなぁ。オレの体型の変化のせいなのかな?

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冗談だか、本気だか、友人のちゃかした意見を笑って聞きながら、だんだんと、のんびりと、自分のペースで酒を飲んでいる。

人間とそれを取り巻く社会との、どうしようもない違和感。これを言葉でうまく表現すること、それはなかなか難しい。でも、ちょっとした会話のなかでその違和感に気づくことがある。大人になること、大人として酒を飲む事ってのは、つまりそういう会話をするってことなんじゃないのだろうか。

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こうして、いままでの陽気で勢いの良い豪快な酒が、しんみりと旨い酒になる。