時の流れが残酷なのは、抗えないからということではない。
不可逆であるからとも言えるが
その残酷さをとくと味わうのは、予測と準備をしなければならないことであると言える。

私は今41歳で、14歳と12歳になる子供がいる。
このことについてとても幸せだと思う。
これは私が27歳の時に妻が子供を産んでくれたこそである。
しかし誤解を恐れずにいえば27歳の時の私は
別に子供がいることを幸せだと思っていなかった。
そら子供は欲しいと思っていたし、幸せを感じてはいたが
絶対条件ではなかった。
27歳の私は赤ちゃんがいる状態を幸せだと思えるほど成熟していなかったのだ。
産まれてきた自分の血を継ぐ存在にびびっていたとも言える。
しかし、今二人の子供に恵まれて幸せだと思う。
当たり前だが今突然14歳の子供が欲しいと思っても手に入らない。
14歳の子供を手に入れるには14年の歳月が必要である。

ここが時の流れは残酷だと言えるところである。
将来の自分が幸せだと思える状態を予測した上で、その準備をしておかなければならない。
人によりけりでそれが子育てであったり、勉強であったり、仕事であったり、金融投資であったりする。
長い目で見れば、刹那的に生きているとどの年代でも欲しい状態が手に入らないことになってしまう。
時間の蓄積がものを言う。
ああ、残酷。もっと早く気づくべきであった。
これは中学2年生くらいの時に教えるべきではないか。
自分の感覚というものは変わります、今絶対と思っているものもどうでも良くなることもあります。
自分の幸せを予測して(決めて)準備しないと手に入りません、と。


妻がカバンを買うから買い物に付き合って欲しいと言ってきた。
41歳の私は妻の買い物に付き合うことにそこまで幸せを感じないが、
きっと将来(現在)の私が幸せだと思うであろう“平穏な家庭“の準備であると感じたので
一緒に買い物をさせていただいた。
*『銀河鉄道の夜』の燈台守の話を見返したくなる
単身赴任のため離れて住んでいる私は、買い物する都市まで電車で2時間の距離である。
有料の特別乗車券が必要な電車でね。
しかしこれは将来の(現在の)私の幸せのための準備なのである。
子供を気にしなくていい二人のお出掛けも久しぶりなので
美味しそうなお寿司屋さんも予約する徹底ぶりである。

思えば妻が自分のもので高い買い物をするのも珍しい。
イオンとか行っても結局何も買わなかったり、子供のものを買って終わることも多い。
(スタバとか化粧品とかの少額の散財は多い)
カバンや服や靴を買うための奮発した額の予算を妻に伝える。
好きに欲しいものを買えばいい、と。
時間は流れ、同じ店をなん度も行き来し、カバンや服を買ったが
結局妻は当初の予算を使い切らずに買い物を終えた。
これも妻なりの将来の幸せを考えた未来予測なのかもしれないなと思った。

買い物を終えて、妻とはしばしの別れを惜しみ、私は帰りの電車の中である。
美味しいお寿司屋さんで、たらふく日本酒を飲み、とてもいい気分。
これから2時間の長旅。
電車に乗る前にさらにビールも買った。
そんな時に自分自身の将来の幸せについて未来予測をしてみた。
今は41歳、仕事にはリュックで行っている。
カッコいいでしょ。


10年後を考えてみた。
51歳の私もリュックで通勤することに幸せを感じるだろうか。
経年変化をした革の鞄を使っていたいと思うのではないか。
さっきも同じような趣旨のことを言ったが、
10年の経年変化をした鞄を使うには10年の歳月が必要である。
51歳の私がその革の鞄を使うには、今その革の鞄を買っていなければならない。
時の流れは実に残酷である。うん。残酷。
だからこそ予測とその準備が必要である。
そして私には先ほど妻が使い切らなかった予算がある。
気づくと私は通販で革のトートバックを注文していた。
酩酊と電車の揺れが都合よくコラボしたのかもしれない。

注文したのはSLOWのかっこいい栃木レザーのトートバッグである。


以前から欲しかった。
10年後ではなく、現在の私も欲しかった。
まじでかっこいい。
そして妻が買ったカバンよりも高価だ。
ヌメ革だし私の望む経年変化をしてくれるだろう。
ほんと時の流れって残酷。今買わないといけないのだから。
その残酷さに抗うのも大変ですよね。
将来のことを考えた上で準備しないといけないのだから。

ちなみに革のカバンを買ったことは妻にはまだ伝えていない。
これもまた未来予測である。
うーん、残酷。