玉ぬ命~世果報~ | 時空を旅する冒険〜風の章〜

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西表島で

「世果報米」というお米

(ブレンド米)と出逢いました。



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「世果報」とは?

調べると、色々と出てきました。



このお米のパッケージの裏に書いてある言葉には

「豊富な自然の糧に恵まれた平和でしあわせな暮らし」の事だそう。



その他のサイトには

「沖縄の古い言葉で、世界の幸せや素晴らしいことという意味で、

豊年とか五穀豊穣とかの願いが込められた言葉」

「天からのご加護により豊穣を賜る」


など、

そこここに存在する

目に見えない(見えるものも含め)

スピリットたちが言葉となってあらわれたように思えます。





NZでもそうだったけれど

NZも、ハワイのように

ポリネシア文化や言葉が残っていて

沖縄の八重山諸島にも、

レムリアの波動が残っているとも

言われているんだとか。






ほぼ母音の多くで表現される言葉には

似たような波動を感じ、

その言葉に含まれる

ちいさな粒子、量子の

すでに満たされた、

豊かな波が存在しているようにも

思えました。







祈りって、

決して、不足から生まれてくるものじゃないのだと。

すでに満たされ、

今、すべてが豊かだからこそ

愛や感謝から泉のように溢れてくる

「祈り」







「天からのご加護」は、

こうしている今も、

常に、

毎瞬、毎瞬、

私たちは溢れるほど受け取っていて

そのなかで

わたしたちは生きている。




そして

豊穣まで

賜ってしまう。














こんな話をすると、

「スピリチュアルという名の世界」として

なんていうんだろう、

別物、と、わけて、捉える風潮があるように思えて

しまうのだけれど、






例えば、

地に足をつけていない生き方だ

とか、ね(笑)







でもさ、そもそも

「スピリチュアルな世界」とか

「スピリチュアルじゃない世界」とか

そんなふうに

「分けられる世界」なのだろうか?

と、私には疑問に

思えてくるんですよ。。。





日常のそこここに

ごく自然に、

皮膚に触れるように

存在しているんじゃないのかな?

って。








私は物心ついたころから

いつも一緒だった気がする。

その世界で生きてきたし

今も生きていると思う。

わけることなど出来ない。

(と、私は思う)








学校にいるときも

テニスをしている時も

料理していても

会社に勤めていても

常にそこここに

存在していると

私には思えるから

何故、分けるんだろう?

って思えてならない。









太陽風とか

太陽フレアだとか





宇宙線とか

宇宙から届いたニュートリノとか

普段見えないけれど

確かに存在している物質や






地球までは届かないけれど

生活のどこかで

影響を及ぼしている物質が

存在しているのと、一緒。








余計、わかりずらい 例えかも (^^ゞ 笑









こうしている今も

見えない素粒子ニュートリノは

遠い宇宙からやってきて

あなたの身体をすり抜けて

地球の大地を抜けて、

地球の裏側へと向かい、

そして、また

遠い宇宙へと旅立っていく。










量子テレポーテーションとか

特別な世界じゃなく

すでに「在る」世界。









理系にはたまらない世界(笑)





あ、

文系、理系なんて

分けなくていいね。






スピリチュアルが好きとか

スピリチュアルで生きるとか

そうゆう表現も

実のところ、よくわからないし

実のところ、どうでもいい。









「世果報」

「ぬちぐすい」

「玉ぬ命」








わたしたちの生活のなかに

しっかり「在る」世界。

そこここに存在している世界。









世果報

「ミルクユガフ」から来ているそう。

ミルクユガフとは

「弥勒世果報」

沖縄では「弥勒」をミルクというんだって。

o→u に変換される。ロ→ル

その弥勒の世が「弥勒世」(ミルクユ)

o→u ヨ→ユ

その「果報」(カフ)

o→u ホウ→フ










そこから、繋がったこの歌。