今日ある番組を見ていて、タレントAがタレントBに「変わってますね。」と言っていた。内容はサラダに何をかけるか。タレントAはどこどこのドレッシングが好きで・・・と言ったのに対し、タレントBは「何もつけない」といった。それに対してタレントAが「変わってますね。」と言ったのだ。私はこのやりとりにどうしようもない違和感を抱く。少し前に友人と話していた時も同じ気持ちになった。その友人はわりとよく「変わってるよね!」「いい意味でだけど、変わってるよね。」と言われる。彼女は別にそれを不快に感じてもいないし、実際言ってる方もこのタレントAも悪意はなく、ある意味個性なるものを誉めているケースもあるかもしれない。それでも私はその友人を“変わっている“と思ったことはない。それは私も同じように“変わって“いて、だからその友人とずっと友達なのかもしれない。ただ私にとって“変わっている“という言葉は、読んで字の如く“変“という意味が含まれている言葉だから、あまりいい言葉だとは思えない。そしてこの“変わっている“という言葉は多数派が謳う“普通“が存在していることが大前提だ。少数派を“変わっている“という言葉で括る感じに自分自身で面倒だと思わなくもないが毎度突っかかる自分がいる。私は誰かを変わってると言うときはまず本人には言わないし、使うときは“自分の普通“からは逸脱しているという意味であることを忘れない。自分の普通が“正“だと信じて疑わない人が無意識に人を傷つけたりする。

 

"真実の追求は、誰かが以前に信じていた全ての「真実」を疑うことから始まる。"

                       -フリードリヒ・ニーチェ-

 

似た話でこの間友人と「“非常識“ってよく言うけど、誰が決めたんだその“常識“」という論議になった。例えば箸の持ち方。誰が決めたかわからないその“正解“に多くが従い、それが出来ないものを少なからず軽蔑さえする。好きなように持って好きなように食べたらいいじゃんと思う。が、そんな私も「何この人、非常識」と思う場面はある。その度に「いや私の世界の常識をこの人に当てはめちゃダメか」と思い直すように心がけてはいる。自分の中の矛盾にふれた時、色々と小賢しく人に論じる自分が恥ずかしくなるが、何も考えずに誰かに「あなた変わってるね。」と言えてしまう人でないだけまだ自分に誇りを持てる。自分の中の当たり前に極力、たまに、疑問を持つ心を私は大切にしたい。

私は子供の頃、太っていた。食べることが大好きで両親も喜ぶ私にたくさん食べさせた。大人は「ぽっちゃりしてて可愛いわね」などと言ったが、兄には「ブタ、デブ」と言われ、自分の体型を自覚し始めていた。そうして小学生になった頃、クラスの男の子と喧嘩をするような強気な性格だった私が喧嘩文句のなくなった相手にいつも言われるのは「デブ!」という言葉だった。もちろん傷ついていたし、ずっとコンプレックスだった。私は中学に入った時、ずっと文化系(ピアノや吹奏楽)だった自分を捨て、断固痩せるべく運動部に入ると決めた。だからその中学で一番練習がきついと言われていたバスケットボール部を選んだのだ。そして思惑通り、私はみるみるうちに痩せ、それ以降は他人から「デブ」の二文字を今に至るまで言われていない。もちろん、人の外見に対して傷つくようなことを言う人が一番悪い。だが、そんな正論と思えることを一生懸命その人たちに説いたって、世の中に“モデル“というものが存在し、ある一定の基準を示す外見の“美“が存在している限り意識を変えるのは難しいと思う。もちろん何かの病気やそのために服用している薬の副作用で痩せられない人もいるが、そうではなくてただ好きなだけ食べた結果太っている人に対して私は常日頃から言いたいことがある。「デブ」「ブタ(そもそも豚があのフォルムなのは別に怠惰なわけではないから私は豚に失礼だと思うが)」と言われて、「太ってますけど何か?私はこの体型である自分が好きだし、今の自分に満足してるの」と気にしない人はそう思えることは素敵なことだし、他意なくそのままでいいと思う。でももし心ない言葉に傷つくのなら、私は、相手や世間が、改心してくれるのを待つより、自分が痩せたほうが早いと思う。モデルみたいにならなくたっていい、人に突っ込ませる余地のないくらいの体型でいればいいのだ。それは同時に健康も保たれるし、入らない服はほとんどないし、悪いことはないように思える。私は痩せにくく太りやすい体質だから、痩せるのに相当努力をしたし、今も体型維持のために日々努力をしている。心の乏しい人たちに「そんなこと言わないで」って訴えるより“言わせない“方が簡単だ。体型は変えられる。自分がいいなら変えなくてもいいけど、傷つくならまず傷つかない努力をしたらいいというのが私の考えだ。そして傷つける側の人に言いたいのは思っている以上に言われた人の人生を変える二文字であることを覚悟していってほしいということだ。私は今どちらかといえば痩せている。だけどそんな今でも太ることへの恐怖なるものを抱いているし、もう少し痩せなきゃといつも思っている。私はストイック体質だから逆にその恐怖や焦燥感のおかげで自分を鼓舞でき、大好きな洋服をほぼ自分が求めるイメージで着られるし結果オーライだが、消えない傷であることは確かだ。

 

"自分の内側に灯りを灯すだけで、それら全てのコンプレックスや、今日の自分を作り上げるためにできた傷は、その人の魅力を引き出す個性になる"  -喜多川泰-

 

傷つくのは自分でもそう思っている「図星」だから。少なくとも私はそうだった。それは同時に卑屈な自分も生み出し、内面をも醜くする。努力でどうにかできる“自分でも思う欠点“は私は内面も含めて、なくしていきたい。

映画「えんとつ町のプペル」についてを1つ前の記事で書いたが、それからVoicyで西野さんの話を聞いていたら、ある人が「えんとつ町のプペル」を観ない理由を語っていたことについて言及していた。それからその人の話をYoutubeで見てみた。「えんとつ町のプペル」を“感動ポルノ”と表現し、価値がないと(映画を観ていないのに)断言していた。その理由は大体こんな感じ。

 

・泣かせようとしている映画

(「泣くために映画を観るなんてくだらない」と宮崎駿も言っていたらしい)

・思想性が低い

(自分の語ることに疑問や反論をどれだけ取り込んでいるかが重要らしい)

・面白いアニメはオタクが見つけて必ずパロディするが、プペルはそれがない

 →本気で面白がっている人はかなり少ないはず、とのこと

・感受性が鈍る映画

 

感動ポルノとは“感動する欲を掻き立てて、感動すること以外に目的がない“作品だそうだ。そういう作品を見て「感動したー」と喜んでいては感受性が鈍るとのこと。私が、この人の言いたいことはわからなくはないが共感はできないと思うのは、自分自身がプペルを観ていいと思ったからではない。特に疑問を抱くのは“感受性が鈍る“の部分。感受性という言葉を検索すると「外界からの感覚的、感情的な働きかけを受けいれる、人間の心の能力あるいは状態」と出てきた。その通り、“感受性が鋭い“というのは能力かもしれないが、感動に対する人間の心の状態でもあるのだ。そしてそれが磨かれるその過程や対象は人それぞれだと私は思う。なぜなら感動はその人の人生に寄り添い共感することだからだ。プペルにしても他の映画にしても心の琴線に触れる部分は人によって違う。実際にプペルを観たという友達と何がよかったか話していたらその箇所は違っていた。昔観た映画を今観ても感じ方が違ったりする。それがまた映画を観る面白さでもあると思っている。プペルに関しては衝撃が走るような映画だったとは確かに思わない、が、総合的にすごく良かったと思う。このYoutubeで語る人も「映像は絶対綺麗」と言っていたが、それだけでも感受性は磨かれるのではないだろうか。綺麗だと思う心、心地いいと思う音響、音楽全てが感受性を豊かにするものだ。見方を変えればくだらないと思えるようなアニメや恋愛映画やコメディ映画の中からも何かしらの感動を拾える人の方が感受性が豊かなのかもしれない(“豊か“と“鋭い“の違いはあるとは思うが)。「こんな作品(映画)は邪道だ、くだらない、価値がない」と自分の価値観や専門性や知識の中で切り捨ててしまう方が感受性が磨かれる可能性の芽を摘んでいるのではないだろうか。感受性が“鈍い“ことも“鋭い“ことも可視化できるものではないし、そこに正解もなければ定義もない。そして泣くために映画を観ようとするなんて…という話もあったが、それは完全に人の自由だ。映画をみる目的はなんだっていいはずだ。(泣くという行為にはストレス解消の効果があると聞いたことがあるし。)それに私は内容がそんなに面白くなくても、役者さんの演技そのものに感動することもよくある。プペルも芦田愛菜ちゃんの声が個人的にとても好きな演技だった。

 

"心で見なくちゃ物事はよく見えないってことさ。

         肝心なことは目に見えないんだよ"

                  -サン=テグジュペリ-

 

私はまず映画をみる理由は本当に人それぞれでいいし、人によって感受性が磨かれる映画は異なると思う。そもそも映画を批判する必要ってあるのだろうか。1人がてんでつまらなかったなと思っても99人は面白いと思うかもしれない。そこに正解は確実にない。「よかったよ、観た方がいい」とおすすめすることは誰かの人生をも変える1歩にもなり得るが、「駄作だ、つまらない、みる価値なし」と専門知識や影響力のある人間が公の場で発信することは誰かの可能性をつぶすかもしれないこと以外に何か意味があるのだろうか。より良い作品を生み出すために評価は大事なのかもしれないが、それは数字で見ればいいのではないだろうか。どんなに否定しようとも理解できなくとも、たくさんの人が劇場に足を運ぶのであればそこにはそれだけの価値があるのだ。芸術は曖昧だ。ピカソが絵を描けば全て傑作になったり、わかりやすくキャッチーに愛を歌えば多くの人にヒットしたりする。そして何よりたとえ感動を与えたのが1万人であったとしても、たった1人であったとしても、人の心を動かすということは素晴らしく尊いことだと私は思う。