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尾崎喜八の文学と想い出

詩人・尾崎喜八()のニュース文学と想い出について、娘の尾崎栄子がつづります。他に、尾崎喜八についてのニュースや記事なども、随時、ご紹介していきたいと願っています。近い将来、尾崎喜八のデジタル文学館に合併された統一サイトとなる予定です。ご期待ください。

 七年余の信州の森の中で過ごした間、さきに述べた波之さんや孤悠師の薦めで「かびれ」誌に投句したり、無鑑査で載せられたりしていたのを、村(当時は富士見村)で集まっては宗匠俳句の句会を開いていた人たちや、高原療養所での句会の人たちの目に着いたのか、三・四の集落から俳句の選者を頼まれるようになった。


尾崎はこの高地農村での集落あげての俳句熱には驚いたようだったが、彼の文章を引用しておこう。


「…その富士見の生活は数十編の詩と散文を私にもたらしたが、土地の人々はそういう詩人の私には敬遠して手をつけずに、たまたま俳句を物する私をもっぱら彼らの句会に招待した。八ヶ岳の山麓、諏訪郡のいたるところで、いわゆる宗匠俳句、月並みの俳句が盛んだった。  私は句相撲というものにびっくりし、節をつけて朗々と吟ずる披講に冷汗をかき、宗匠の書いて与える聯板(れんいた)という物に目を見張った。そういう句会は十二月から翌年三月頃までの農閑期に各処で頻繁に催されて、人々は兼題の句や古い孕み句をふところに、雪や凍土の高原の道を遠く村から村、部落から部落へと集まって行くのだった。


   しかしまた一方には数の上でこそ及びもないが、純正な俳句、文学として俳句を励み楽しんでいる少数の人たちもあった。その人たちはそれぞれに『ホトトギス』『馬酔木』『夏炉』『雲母』或いは『山火』などへ投句していた。
 高原療養所の患者のなかに其の種の人がもっとも多く、他は山麓のいくつかの部落に一人二人と散在していた。そしてその人たちが下諏訪在住の木村蕪城君や私を折々まねき、また私の家へ集まって、句会を催したり批評を求めたりした。しかし彼らもまた、いや、彼らといえども悲しいかなまた、詩人としての私によりも、俳句に理解や愛を持つ者としての私に一層多く期待をかけていたらしいのは、ここでも同じ事だった。そしてたまたま私をうながして近作の詩を読ませながら、溜息をついて彼らは言うのだった。 『どうも詩というやつはむずかしくって』と…。」