エセフェミ男とか隠蔽されるジェンダーとか | 砂上の賃貸

エセフェミ男とか隠蔽されるジェンダーとか

finalventの日記 恒例の社説チェックを読んでいて、毎日が少子化についての社説で

家庭が幻滅の源泉であるとすれば、理論的には夫婦の共同責任だが、現実には男の責めに帰すべきだ。なぜ? 私はフェミニストというほどの人間ではないが、この社会で、そして家庭で女性が割を食っているのは自明だと思う。

と、ライブドアPJ並の感想文(「自明だと思う」で片づけば便利でいいよね)を書いているのを知ったわけだが、この社説子は「フェミニストというほどの人間ではない」どころか、マッチョもいいところではないだろうかと思った。なぜか?それは自明だと思うから。

自明というのはもちろん冗談だが、家庭における夫婦関係であれ、一般的な男女関係であれ、そこには関係性というものが発生する。そしてそれは周囲の環境を考慮に入れず単純化すれば(そこまで考え出すと手に余るのでここではシンプルに考える)、双方の考え方や立ち居振る舞いによって定まるものであって、「現実には男の責めに帰すべき」などと一方の側に帰せるものではない。そして、責任を全て自分の側に帰すというのは一見ストイックでカッコよく見えるかも知れないが、実際のところは主体を自分の側に引き寄せて、関係性というものを一方的に規定する振る舞いでしかない。相手から主体と責任を奪い取る振る舞い、これがマッチョでなくてなんであろうか。結局のところ、かつての家父長制に支えられた「男」の尊厳が奪われていく中で、関係性を変えることができずに独りよがりな「理解者」の位置に立つことで尊厳を守ろうとしているだけに過ぎない、とまで書くと言い過ぎかも知れないし論証はできないが、直感としてはそう思う(って結局「自明だと思う」と大差ないですね。あはは)。

毎日の社説の話から外れて一般論で考えるが、エセ(とあえて書かせてもらう)フェミニスト男の物言いに多くの場合つきまとっているのは、自分のジェンダー に対する無自覚さ、あるいは自分のジェンダーを切り離した態度だ。簡単に言えば、男性である自分自身に根づいた性的な振る舞いや欲望と向き合い掘り下げることをせずに逃げているだけに見える。逃げの手段としてフェミニストを自称して、または自称せずともフェミニスト的な態度を取ることによって、女性の「理解者」として安全な位置に立とうとしているだけではないだろうか。そして、彼らは自らのマッチョな部分を隠蔽し続ける。

話が少しそれるかもしれないが、こうした態度はセックス(ここでの意味は性行為としてのセックス)と恋愛が切り離されつつある近年の風潮と関係があるようにも思える。いや、切り離されたのは単に恋愛からだけではなく、日常の様々な振る舞いからかもしれない。セックスそれ自体は昔よりもはばかられずに語られるようになったが、それは独立した欲望としてでしかない。そして、独立した欲望としてのセックスが語られやすくなった一方で、その裏返しとしてジェンダーフリーを装ったジェンダーの隠蔽が進んでいるのではないだろうか(念のため書くが、これは当然ながら、ジェンダーフリーを積極的に唱えている人たちがジェンダーを隠蔽しているという意味ではない)。切り離されたセックスが盛んに語られることで日常につきまとうジェンダーは忘れ去られ、表面的にはジェンダーは解放されていくがそれはあくまでも表面的なものであって内実は隠蔽されたまま何も変わらない、そんな社会になりつつある気がする。