「伝えるべき情報」の行方 | 砂上の賃貸

「伝えるべき情報」の行方

ネットは新聞を殺すのかblogの3月13日のエントリ、参加型に対する疑問:伝えるべき情報が伝わらなくなるがわりと反響を呼んでいるみたいなのですが、トラックバックされていたエントリのうちの一つ、ある編集者の気になるノート 日本人は、そんなに意識が高いのか?に対してまずはツッコミを入れるとともに、「伝えるべき情報」について考えてみたいと思います。

ある編集者のノートでは

日本人は、そこまで信頼にたる「情報の受け手」なのだろうか。

いや、もちろんそういう方々もいるのだろうが、いっぽうで、「伝えるべき情報」(この定義自体難しいが)を受け取ろうともしない、「情報拒否児」的な人々もいるのではないか。
まるで、芸能とスポーツのニュースが好物で、それだけでお腹いっぱいみたいな。

この国の人間の、情報に対する意識は高いのか、低いのか?
僕は、正直、疑問である。


と書いているのですが、はっきり言わせてもらえばこれは不毛な問いかけでしかありません。そもそも、高い/低いの線引きとなる水準はどこなのか?「日本国民全員が政治や社会問題に関心を常に持ち、情報に対する意識を持たなければならない」と考える人にとっては、日本人の情報に対する意識は低いことになるでしょうし、逆に「マスメディアから一方的に流される情報を鵜呑みにせずに、情報の真偽や意図を考える人々が少なからずいるのは素晴らしいことだ」と考える人にとっては、日本人の情報に対する意識は高いことになるでしょう。

また、ある編集者氏は「日本人の」「この国の人間の」と書いていますが、では例えばアメリカ人だったら日本人に比べて顕著に意識が高い(もしくは低い)のか?というのも疑問です。これは米ネットユーザーに対してのブログに関する調査結果の記事ですが、アメリカではブログを介した政治運動や議論などが盛んなイメージがあっても、実際にはその動きは未だ限定的でしかないことがこの調査結果からは明らかです。

さて、まずは「情報に対する意識は高いのか、低いのか?」という問いかけに対して冷や水を浴びせてみたわけですが、それだけでは意味がないですし、「情報に対する人々の意識がより高まらなければならない」みたいなアジテーションも不毛(そんなことを叫ぶだけで意識が高まればこの世はとっくの昔にユートピアになっている)ですので、「伝えるべき情報」について論を進めてみます。


まず、「伝えるべき情報」とは何か?抽象的に言えば「(日本国内に限らず)社会全体の公益に関わる情報」と言えるでしょう。しかし、現在の問題点は、そのような社会全体の公益に関わる情報は多岐に渡る上に、一時情報を寡占しているマスメディアが全体をカバーすることができなくなっていることにあると考えます。

ネットは新聞を殺すのかblogで抜粋している江川紹子氏の疑問に

「人気がなければ消えていく、人気が上がれば大きく扱われる。完全に市場原理。我々は、操作をせずに、読み手と書き手をマッチングさせるだけ」
 そうなれば、確かに新聞社の意図的な情報操作はできなくなる。その一方で、埋もれていた記事の発掘、少数者の声などは表に出てこない。

イラク、アフガニスタン、アフリカ諸国といった外国の情報は、普段は気にもとめずに生活しているけれど、そういうことは知らなくてもいい、のだろうか。
 普段、気がつかなかった事柄を、新聞で読んで知るという機会もなくなる。

とありますが、ジャーナリズム考現学で書かれている通り、既存メディアでも、市場価値が高いものをトップニュースに持ってきていることには変わらないですし、例えば極東ブログあたりを読んでいる人からすれば、海外の情報についての江川氏の発言は笑止ものでしょう。ライブドア堀江氏の目指すとされる完全市場原理主義の新聞像に対する批判としては有効かもしれませんが、かと言って既存のマスメディア擁護としてはお話になりません。

現在のマスメディアが「伝えるべき情報」を伝えるメディアとして十分に機能できていないのに対して、インターネットを通じて少なからぬ人々がマスメディアに対するカウンターとして機能するとともに補完的に「伝えるべき情報」を提示しているという現状を見る限り(果たしてどれだけの人々がより多岐に渡る「伝えるべき情報」を受け取るべきなのか、また実際に受け取っているのか、という点を別にすれば)、ゆるやかではあるにしろ情報の送受信はベターな形へと変化しているのではないでしょうか。もちろん、高い理想を抱く人々にとっては未だ強い不満があるとは思いますが。


おそらく、「この伝えるべき情報はもっと多くの人々に伝わるべきだ!」と考える人は多数いて、そして、人によってその「伝えるべき情報」は違うはずです。例えば先日警察庁が発表した、13歳未満の子供を対象とした性犯罪の再犯に関するデータについての問題があります。詳しくはここここおよびそのトラックバック先を参照してもらえばわかりますが、これを読めば、警察庁によって「性犯罪者は再犯率が高くて危険」という印象を与えるために恣意的なデータが作成され、各新聞がそれを何ら検証せずに垂れ流し報道を行ったことがわかると思います。
(以前愛知通り魔事件についてのエントリで示した通り、平成9年における出所受刑者の半数近くが5年以内に再び犯罪を犯して再入しており、再犯を問題にするならば性犯罪者に限らず、犯罪者全体の更生保護や刑務所での矯正のあり方について論じられるのが真っ当であり、公益にかなうはずです)

少なくとも僕個人は、防犯のためとは言えこのような恣意的なデータを作成、公表することも、さらにマスメディアが(普段は「公権力の監視」などとうたっているにも関わらず)それを平然と垂れ流してしまうことも由々しき問題であり、出来る限り多くの人がこの情報を知るべきであると考えます。


しかし、他にも様々な「伝えるべき情報」があるのは事実であり、今例に挙げた僕にとっての「伝えるべき情報」はあなたにとっての「伝えるべき情報」であるとは限りません。また、人は情報を無限に受け取り咀嚼するだけの時間を持ち合わせてはいません。そして、多種多様な「伝えるべき情報」を正しく優先順位づけることは不可能であると言っていいでしょう。市場原理が不完全であるのと同時に、特定少数の人々が情報の順位を定めることもまた不完全です。それは権力闘争を生むこととなります。マスメディアにとって変わる「情報の門番」を求める人もいるようですが、絶対的に正しい「情報の門番」などあり得るはずもなく、「情報の門番」への盲信は権威への盲従に他なりません。

また、マキャベリスティックな戦術をいとわないのであれば、いかにセンセーショナルな問題提起をして人々の耳目を集めるかが問われることになるでしょう。しかし、センセーショナリズムは本来伝えたかった要点から離れてキャッチーな部分においてのみ人々の興味を集め、悪い意味での競争意識がさらにセンセーショナルな情報を生み出します。行き着く果ては珊瑚事件です。

最終的には、僕にとっても、あなたにとっても理想的なジャーナリズムなど決して誕生せず、「伝えるべき情報」が正しく多くの人に伝わる社会などやって来ないでしょう。これはニヒリズムで言うのではなく、現実的な物の見方です。

しかし、そうした現実に絶望して過激な方向に走るのではなく、一個人のできる範囲で情報を収集・咀嚼・発信して、様々な問題提起を続けることは可能です。たとえ少ない人数であっても誰かが目を通して、場合によっては目に見える反応をするでしょう。参加型ジャーナリズムにおける「伝えるべき情報」の送受信の形とはそのような、とても理想にはほど遠い、地味で小さなレスポンスの積み重ね以上でも以下でもないのではないか、理想主義に走りがちな人々に警鐘を鳴らす意味でも今回はこのようにまとめたいと思います。