ずいぶん苦味のある映画だった…。

ミュンヘンと言えば、オッさんの多いビアホールチェーンくらいしか思いつかなかった俺。でもこの映画を見ていろいろ考えさせられた。さすがスピルバーグだ。

発端は1972年のミュンヘンオリンピックの最中に起きたイスラエル選手団のイスラム系テロリストによる人質事件。人質全員が死亡という悲劇からイスラエルの秘密警察モサドは報復を計画、そのリーダーに指名されたのが主人公の兄ちゃんだった・・・。

少なくとも俺が生まれて以降はどこかに占領されたり、したりという経験がない日本人には「自分の国を守るため、造るため」に血みどろの争いを続ける彼らの気持ちは全てわかるとは思えない。でも「殉教して次に生まれ変わったら幸せになれる」「自分の子孫のための国は死んでも守る」こんな極端な考えを刷り込まれた両者が和解するなんてことも同じくらい難しいはず。エルサレムがある限りどっちも譲るとは思えないので、戦国時代の国がえみたいな感じで「三方一両損」みたいな大岡裁きを国連あたりがやれないもんだろうか?

映画の中で主人公は殺人行為への心境の変化や自身への危機感などを感じ、次第に自分の受けた指令に対して疑問を持つようになる。要するに監督がいいたいんは「いくらテロしたってイタチごっこなんやから、そろそろやめようや!」だ。
ユダヤ系の監督がイスラムではなくあえて身内のイスラエルに送った平和メッセージは意味があると思う。しかし、ラストにわざとらしくWTCをのぞかせたりして「テロのない平和」へだけ意識を見せているのはどうかと思った。

「わが国はテロリストには屈しない」いろんな国の大統領や首相が誇らしげによく使う言葉だ。この言葉には「(卑怯な手を使う)テロリストの交渉には応じない」という姿勢が含まれている。でも、テロって本当に卑怯な手なんだろうか?
調べてみたら「テロリズム:心理的恐怖心を引き起こすことにより、政治的主張や理想を達成する目的で行われる暴力行為のこと」と書いてあった。もちろん、無関係な一般市民を巻き込むような無差別テロは許されるわけはない。でも、それが戦争における彼らの戦闘手段だとしたらある程度、仕方ない部分もあるのではないかと思った。

「(卑怯な)テロなんてない方がいい」というのは、テロをせずに戦う事ができる強者の論理だと思う。テロをやらざるを得ない状況にまで追い込んだ原因に目を向けて歩み寄ることをせずに、ちょっと一般市民を殺されただけで「世界一の被害者」みたいな顔をするのはどうかと思う。空爆でその何倍もの一般市民を殺されたアラブ側にとってはただの「報復」でしかないのだから。

…今日は硬ぇなぁ!テロなら写真みたいにやってほしいよな。