祭り報告はこれで最後になります。
重茂味まつりの会場を14時撤収。名残惜しさを感じながら岩手単協や関連者に挨拶を済ませて、世界的に知られるようになった大津浪記念碑を見学に姉吉地区へ。
姉吉地区は東日本大震災で最も高い海抜40メートル地点まで津波がやってきた集落で、集落のすぐ下に明治、昭和の大津波を契機に建てられた碑があります。
「高き住居は児孫の和楽
想へ惨禍の大津浪
此処より下に家を建てるな
想へ惨禍の大津浪
此処より下に家を建てるな
明治二十九年にも、昭和八年にも津浪は此処まで来て部落は全滅し、生存者僅かに前に二人後に四人のみ 幾歳経るとも要心あれ
と、書かれています。
姉吉地区では東日本大震災で、4人が津波により犠牲になりました。
内陸地から嫁いで来られた女性と3人の子どもたちです。隣の地区にある千鶏小学校に母が子を迎えに行き、そのまま4人は帰って来ませんでした。
このことや残された家族のことを思うと、(記念碑のおかげもあり集落自体の被害はなかったが)複雑な心境だと、以前、地元の人は話していました。
震災当時「津波てんでんこ」という言葉がいわれていました。
三陸地方では昔から「津波起きたら命てんでんこだ」と伝えられていたそうです。自分の命は自分で守れという意味で、関東圏の言葉で言うなら「津波はめいめい命は各自」になります。
「津波が来たら取るものもとりあえず、肉親にも構わずに各自てんでんばらばらに一人で高台に逃げろ」「自分の命は自分で守れ」「自分自身は助かり他人を助けられなかったとしてもそれを非難しない」…そういった意味合いをふくんでいるそうです。
とは言っても親と子、庇護が必要な人と保護者ではなかなかそうは言いづらい面もあるかとは思いますが……。
震災からの復興の場面では、住民を守って地域の世話人やリーダーが津波でなくなってしまったりすると、その後地域のまとまりがつかなくなり復興の歩みが遅くなってしまう、あるいは停滞するなどの例も多いように聞きました。
やはり、たとえ子どもであっても、一人一人がてんでんこできるくらいに自立できるよう日頃からイメージトレーニングをしていこう…という考えは大切かもしれません。
(震災時には自らの判断で、見事にてんでんこを実践した子どもの話も少なからずあります)
今回の大震災での津波到達点の碑も、ここからすぐの海側にありました。
姉吉地区の海は、
覗き込むと魚がたくさん泳いでいるのを見ることができます。
姉吉地区
鮮やかなオニユリの花。周辺の崖には海抜30〜40メートル高さに、漁業用の浮き(ブイ)や自転車らしきものがかかったままで、津波の凄まじさを物語っていました
その後は千鶏地区、重茂漁協の大下博道くんのルーツのある川代地区を経て山田町へ。道中、断崖絶壁の合間のほんのわずかな平地につくられた集落を見ながら思いました。先人たちがこの地で生きていくのはすごく大変だったに違いないと。基本、あるのは急峻な山と深く沈み込んだリアス式の海だけなんです。
漁業以外の基幹産業はありえないです。
だからこそ、重茂漁協は漁業の再開、そこからの地域の復興に必死だったんですね。
「協同の力でこの地に日本一の理想郷を創る」と書かれた看板が震災前の重茂港に立っていたと聞いたことがあります。
道行く集落を見ながらこの目標を掲げた当時の重茂の人々の胸中を改めて想像してみました。
誇り高く、不屈の精神を持っている、禍福を合せ持つ海とともに生きようとしている…
本当に毎年足を運ぶたびに、気がつくことがいろいろあるのが重茂です。未だにそうです。
山田町に入るとお神輿の列に行く手を阻まれました。
この時は「時間が…」とそればかりが気になってしまいましたが、調べてみるとなかなか由緒ありそうなお祭りとわかりました。
魚賀波間(ながはま)神社例大祭という行事で、郷土芸能、大沢大神楽・大沢虎舞・山谷獅子舞が披露されるのだそうです。
震災から7年の月日が経ち、平時の暮らしが取り戻せたからお祭りも復活したんですね。
山田から現在建設中の高速に乗りました。が、道路の状況が所々昨年ともだいぶ変わっていて、思いのほか時間もかかりました。
盛岡帰着時間が相当にタイトであることがわかり、宮古市茂市の湯ったり館からは、当ツアー屈指の名ドライバー、川村代表が一路盛岡駅を目指してひた走ってくれました。途中、怪しく高速道路が伸びていたりしましたが、上手な運転手は飛ばしても安心感を感じられるハンドルさばきで、絶妙なタイミングで盛岡駅到着。皆さん新幹線に間に合って本当に良かったです。
初めてのことも多かったと思いますが、川村新代表は頑張って皆をまとめていました。皆でサポートすれば次年度以降もこのツアーは続けられる…そう実感できました。







