
(クモハ42001・浜河内~長門本山・2002年2月26日)
雀田~長門本山の枝線で、朝夕を中心にクモハ42形が単行で運転していました。クモハ42形と言えば京阪神地区の急行電車用モハ42形として製造された2扉セミクロスシート車。現在の新快速の先祖に当たります。
モハ42形は13両製造されましたが、第2次世界大戦末期の1944年に10両の4扉化と3両の3扉片運転台化が計画されました。しかし実際に4扉化されたのは5両にとどまり、そのうちモハ42003が戦災で廃車後オハ71 133として復活。その後マニ76 41となり、残った4両は1953年にモハ32形(2代目)形式変更。3扉片運転台化されたのは1両のみで、こちらはモハ51073となりましたが、1944年時点では2扉片運転台化されたのみで、3扉化されたのは1953年でした。
またモハ42004は事故廃車の後小田急1800形デハ1821となり、デハ1811への改番を経て秩父鉄道800形デハ806となりました。
生き残った6両のモハ42形は飯田線と小野田線に3両ずつ転属。飯田線用は1978年に廃車され、小野田線用の3両が細々と活躍していました。
京阪神のエースの最後の活躍の場がこの枝線だったわけですが、1986年にクモハ42005が廃車。2000年にはクモハ42006も廃車されました。最後まで残ったクモハ42001も2003年3月14日に定期運用を終了。現在も車籍は有していますが、下関総合車両センターで保管されています。
繰り返しますがこの車両こそ新快速のご先祖様。大切に保存していってもらいたいものですね。