
(「ひばり」クハ481・小山・1979年1月)
この頃はポケットカメラだったので写真のデキの悪さは気にしない(笑
ともあれ、485系の全盛期。それも東北本線の主力L特急だった「ひばり」は、モノクラス6両編成の「いしかり」とは比べものにならないぐらい堂々としていました。そして速かった。
従兄弟の家から自転車に乗って撮影にも出かけました。この時撮影したのが485系1000番代の「やまばと」です。

(「やまばと」・クハ481-1000・雀宮~宇都宮・1979年1月)
「やまばと」は同じ奥羽本線系統の「つばさ」とペアを組んだL特急。使用車両も共通で秋田運転所の485系1000番代を使用していました。
東北本線系統ではわずか1往復の運転でレアな存在だった「あいづ」。

(「あいづ」・クハ481・宇都宮・1979年1月)
磐越西線の有効長の関係で9両編成に制限されていましたが、食堂車を連結した6M3T編成を組むためにクロ481が誕生したきっかけを作った列車です。そういう意味では今の特急と違って風格を持っていますね。
1980(昭和55)年8月。札幌から新潟県小出町(現・魚沼市)に引っ越したのですが、札幌からは親の運転する車で小出に向かうことになりました。
道程は苫小牧まで自走していき、苫小牧から仙台までフェリーで移動。仙台から蔵王を経由して会津若松まで行き、ここで家族ぐるみで付き合っていた幼なじみ宅に立ち寄り。父だけ車で先発し、自分と母親は只見線を走破するというプランでした。
仙台から東北自動車道を南下し、途中の国見サービスエリアで休憩したのですが、ここは東北本線貝田駅を見下ろせるポイントで、休憩時間内に4本ほど列車を撮影してみました。
485系特急も2本通過。1本は「はつかり」でもう1本は写真の「やまびこ」。

(「やまびこ」・貝田駅・1980年8月)
「やまびこ」は「はつかり」とペアを組んだL特急として活躍していましたが、1982(昭和57)年6月23日の東北新幹線暫定開業で新幹線にその名を譲り、東北特急で真っ先に消滅しました。
会津若松滞在中は会津若松駅付近で鉄道三昧。磐越西線のエース特急「あいづ」も撮影しました。

(「あいづ」・クハ481-21・会津若松駅・1980年8月)
「あいづ」はクロ481を連結していたのでボンネット率100%でしたが、クハ481ボンネット率も高かった記憶があります。
さて、小出は上越線沿線なので、毎日485系特急「いなほ」がやって来ました。

(「いなほ」・クハ481-1000・土樽~越後中里・1982年4月)
上野~秋田・青森間で3往復が運転されていた「いなほ」ですが、秋田「いなほ」2往復は秋田運転所の485系1000番代を使用し、「つばさ」「やまばと」と共通運用でした。
青森「いなほ」1往復がは青森運転所の車両を使用。「はつかり」「やまびこ」「ひばり」「白鳥」と共通運用となっていました。
この青森「いなほ」には485系1500番代も使用されていたので、割と頻繁に1500番代も見ることができました。

(「いなほ」クハ481-1505・八色~小出・1981年8月)
やっぱり4つ目ライトはいいですね。
小出在住時代は度々長岡に出かけることがあり、ここでは北陸本線系統の特急を見ることができました。
大阪~青森間を結んだ「白鳥」は世界最長距離を走る電車特急。

(「白鳥」・クハ481-334・長岡)
この頃はまだ越後交通栃尾線の名残が残っていました。青森運転所の485系を使用した「白鳥」は一時はグリーン車2両組み込みの専用13両編成で運転されていましたが1978(昭和53)年10月2日の改正で「はつかり」「やまびこ」「ひばり」「いなほ」と共通の12両編成となっています。
大阪から「雷鳥」もやって来ていました。

(「雷鳥」・クハ481-113・長岡)
向日町運転所の485系を見たのはこれが最初でした。
その後1981(昭和56)年に新大阪から長岡まで「雷鳥」に乗車。これが485系初体験でした。新潟「雷鳥」は途中2カ所で直流と交流を切り換えるための無電区間=デッドセクションを通過するため、交直切換の停電も初体験しました。あの頃は停電テストをしていたようで、都合4回室内灯が消えた記憶があります。
金沢~新潟間で運転された「北越」。この頃は向日町運転所の485系を使用していました。

(「北越」・クハ481-108・長岡)
当時は地味な存在だった「北越」ですが、現在は「はくたか」と新潟「雷鳥」、そして「白鳥」を吸収する形で5往復まで成長しました。
青森運転所、仙台運転所、向日町運転所という485系のメイン基地を拠点とした全盛期の特急に触れることができたのがこの時期ですが、程なくして状況は一変することになります。