実際には平坦線区の東海道本線では153系が主力であり、しかも東海道新幹線開業を翌年に控えていたこともあり、まずは山岳線区向けの165系が先に登場する形となっています。

(急行「よねやま」クモハ165-32・土樽~越後中里・1982年7月)
165系は上越線向けに新潟運転所に配置されたのを皮切りに山岳路線を中心に配置されましたが、やがて平坦線区にも活躍の場を広げていきました。
自分と165系の出会いは六日町に住んでいた1974(昭和49)年頃となります。関東との行き来は「とき」がほとんどでしたが、「とき」が満席になると急行「佐渡」「よねやま」に乗車するような感じでした。まさに特急の補完列車の使命を担っていた感じですね。
幼少の頃ゆえ写真もありませんし、あまり印象が残っているわけではないのですが、当時特急は一切停まらなかった熊谷に停車した印象だけが強く残っています。
1976(昭和51)年に札幌に引っ越してからは165系と疎遠になりましたが、1979(昭和54)年1月に東京に出てきた際に、東京駅で153系の急行「東海」を見ようと思ったら、先頭車がクハ165でがっかりした記憶があります(笑

(急行「東海」クハ165・東京・1979年1月)
さらに宇都宮の従兄弟の家に遊びに行った1979(昭和54)年の夏には、新前橋電車区所属の165系急行「なすの」を撮影しました。

(急行「なすの」クモハ165・雀宮~宇都宮・1979年8月)
とは言ってもポケットカメラでの撮影なので大した写真ではありませんが。
ちなみに新前橋電車区の165・169系は7両編成と3両編成がありましたが、写真の列車は3両+7両の
上野←McM’Tc+McM’Tc McM’TsTc→宇都宮・黒磯
という10両編成になっています。
なお新前橋電車区の165・169系は臨時で碓氷峠を越えることがあったため、重量車を横川側に向けるため、編成を方向転換し、上野方にクモハ165が連結されています。
あと、写真を撮ることはできませんでしたが、1979(昭和54)年に名古屋駅に運転停車した「瀬戸」からクハ164を見たことがありました。クハ164は山陽本線で165系と混結していたクハ153の低運転台形0番代を改造して抑速ブレーキなどを使用可能としたもので、8両が改造されましたが、外観はクハ153そのままでした。なおクハ164は1983(昭和58)年までに全車廃車になったようです。
1980(昭和55)年8月に札幌から新潟県小出町に引っ越して、再び165系が身近な存在になりました。
この当時は上野~新潟の急行「佐渡」が3往復、上野~長岡~直江津の「よねやま」が1往復運転されていました。所属は新潟運転所で、ビュフェ車は外されていましたが、グリーン車は2両連結され
上野・直江津←McM’TcTsTsMcM’TcTMcM’Tc→長岡・新潟
という12両編成。現在の短編成の時代からは想像できない堂々とした姿ですね。

(急行「佐渡」クモハ165・小出・1980年8月)
新潟運転所所属のクモハ165は、運転台上にある大型箱形ベンチレーターが撤去されていたのが不思議でした。
この頃はよく長岡に家族で買い物に出かけたりしましたが、その時、親の買い物中に長岡駅のホームで写真を撮ったりしたものです。その際に撮影したのが急行「とがくし」。

(急行「とがくし」クハ165-54・長岡・1980年9月)
1972(昭和47)年に上田~長野~新潟間を走っていた急行「よねやま」の名称を上野~長岡~直江津間の急行に譲った際に新たに命名されたのが「とがくし」。「佐渡」「よねやま」編成から普通車ユニット3両と2両のサロ165を抜いた
上田・長野←McM’TcTMcM’Tc→新潟
という7両編成で運転されていました。3号車はグリーン車だったかと思っていたのですが、どうやら勘違いだったみたい。
小出を定期的に通過する165系は新潟運転所所属の急行「佐渡」「よねやま」だけですが、冬のスキーシーズンに入ると臨時急行「小出スキー」が多数運転されていました。

(急行「小出スキー」クモハ165-117・小出・1981年2月)
「小出スキー」は下りが夜行列車中心で、上りは午後の昼行急行という、当時の典型的なレジャーダイヤで運行され、日中は長岡運転所などに留置されていました。
臨時なので客車や電車など様々な車両が使用されていましたが、1980年代の電車は新前橋電車区所属の165・169系に統一されていました。
この時の編成は付属3両+基本7両の10両編成でした。なお前述の通り新前橋電車区の165・169系は編成を方向転換しているため、新潟の編成とは逆に上野方にクモハ165が連結されていました。
小出を出発した「小出スキー」の最後尾は試作冷房改造車だったクハ165-93でAU12分散クーラーを6基搭載しています。

(急行「小出スキー」クハ165-93・小出・1981年2月)
クハ165の試作冷房改造車は8両存在しました。なおクモハ165にもAU12が搭載され、モハ164には集中式クーラーのAU71が搭載されています。このクハ165-93+モハ164-55+クモハ165-91は後に秩父鉄道に譲渡され3000系3201形となり、25年後に思わぬ再会を果たしました。
上越線といえば清水峠越えの補機EF16が有名でしたが1980(昭和55)年で引退してしまいました。そのうちEF16 28は水上機関区内に保管されていたので、写真を撮りに行ったことがありました。その時に水上駅で撮影したのが急行「ゆけむり」です。

(急行「ゆけむり」クハ165-92・水上・1981年5月)
当時の65系新前橋車の上越線内定期運用は、急行「ゆけむり」「草津」「あかぎ」と一部ローカル列車でした。急行「ゆけむり」は上野~水上の急行で、レジャーシーズンは越後湯沢や石打まで季節延長していました。
この年、185系が田町電車区に投入されて、153系が置き換えられる事になるのですが、次のターゲットが新前橋の165・169系だと知るのはもう少し後のことでした。
1982(昭和57)年は6月23日の東北新幹線開業と、11月15日の上越新幹線の開業に始まり、全国規模の輸送体系の変化があった年です。当然ながら165系にも影響がありました。
新潟運転所の「佐渡」「よねやま」は11月のダイヤ改正で減車されることになり、12両編成で力走する姿はこの年が最後となりました。

(急行「佐渡」・土樽~越後中里・1982年7月)
この区間の上り線は、この鉄橋を渡ってから松川ループを駆け上がります。

(急行「よねやま」・土樽~越後中里・1982年7月)
下り線は松川ループを大きく迂回するようにして勾配を降りてきます。
8月は、宇都宮の従兄弟の家から撮影に出撃したりもしました。

(急行「なすの」・雀宮~宇都宮・1982年8月)
今考えるととんでもない場所で撮影していますが、当時はこのように上下線が離れている場所に入っても怒られませんでした。

(急行「日光」・宇都宮~鶴田・1982年8月)
ちょうどここで東北本線と日光線が分岐していました。東武DRCとの客取り合戦に敗れた「日光」ですが、まさか東武直通特急として復活するとは思いませんでした。
この1982(昭和57)年夏からは神奈川の祖父母宅に引っ越して活動拠点も関東に移りました。そして1982(昭和57)年11月15日のダイヤ改正によって変化する列車の撮影にいそしみました。
房総線区の急行は11月15日のダイヤ改正で特急に格上げされることになり、165系幕張電車区所属車の定期運用は失われることになっていたので、夏のある日、両国に撮影しに行きました。でもここって撮影しづらいんですよねぇ。
まぁそれはそれとして。
「外房」は特急「わかしお」に吸収されました。

(急行「外房」クモハ165-131・両国・1982年8月)
房総急行は両国を起点として、一部が新宿発着となっていました。
編成は幕張電車区所属で
安房鴨川・千倉・館山・銚子・鹿島神宮←McM’TcMcM’TsTc→両国
を基本とし、McM’Tcを増結することもありました。
この日は「犬吠」が153系充当列車でしたので165系「犬吠」は撮影していません。ちなみに「犬吠」は「しおさい」に吸収されました。
「内房」と「鹿島」はそれぞれ「さざなみ」と「あやめ」に吸収されています。

(両国・1982年8月)
そして「水郷」は特急「すいごう」に格上げされました。

(急行「水郷」クハ165-195・両国・1982年8月)
上野口の165系急行の運用に変化はありましたが、意外にも廃止及び発展的解消された165系急行は少なく、廃止されたのは上野~日光間を結んだ急行「日光」だけで「あかぎ」が「はるな」に名称変更したぐらいでした。

(急行「日光」クモハ165-80・鶯谷・1982年11月)
かつては東武鉄道と国際的観光地日光への客取り合戦でデラックス準急157系を投入したこともありましたが、最後はひっそりと姿を消した感じでしたね。
11月15日の改正ではあまり撤退感がなかったのですが、165系終焉の時はここから本格化していったようです(続く)。