【み】三井寺(みいでら) ~後編~ ;近江旅路⑭ | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

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特にテーマもなく、徒然なるままに書き綴ってます。

三井寺・・・

正式名称は長等山 園城寺、天台寺門宗の総本山。

弘文天皇の皇子 大友与多王が父を弔うため「田園城邑」を寄進して建立し、天武天皇から「園城」の勅額を贈られ、「長等山園城寺」と称したのが始まりとされている。

境内に天智・天武・持統の三帝が産湯を使ったという霊泉(御井(みい))があり、それが「三井寺」の名の由来となっている。

唐から帰国した円珍が、貞観元年(859年)に密教修学の道場として唐院を設け、再興した。

10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒による焼き討ちを度々受けたり、源平争乱の戦禍、豊臣秀吉による闕所令などにより大打撃を受けているが、都度再興され「不死鳥の寺」と称されている。

 

 

 

 

 

 

 

4月18日(土)~21日(月)、滋賀県に旅行に行ってきました。

二日目の三井寺園城寺の続きです。

 

 

 

 

① 唐院

中興の祖 智証大師 円珍(814~891年)を祀った大師堂を御廟とし、園城寺で最も神聖な区域とされている。

「唐院」に名は、円珍が唐から持ち帰った経典・法具類を納めたことに由来するそうです。

 

奥にあって見づらいですが、一番奥の建物が大師堂(重文)で、慶長3年(1598年)に再建されたものです。

金色不動明王立像(重文)と二躯の木造智証大師座像(国宝)が安置されているそうです。

 

大師堂の正門である唐門(重文)も慶長3年(1598年)再建との事。

 

手前の建物は灌頂堂(重文)で、密教を伝承する道場にあたるそうです。

大師堂の拝殿としての役割もあるようです。

 

灌頂堂の脇の建物は長日護摩堂

寛文6年(1666年)に後水尾上皇の寄進で再建されたとの事。

 

唐院の正門である四脚門(重文)から唐院を退出。

門は寛永元年(1624年)再建との事です。

 

 

② 村雲橋

円珍がこの石橋を渡ろうとした時、自らが学んだ唐の青龍寺が焼けているのを察知し、閼伽水をまくと、橋の下から村雲が湧き起り、唐に向かって飛び去ったそうで・・・その後、青龍寺から鎮火の礼状が届いたという伝説があるそうです。

 

 

③ 勧学院

唐院の南隣に位置する子院。

一般公開はしておらず、事前申し込みが必要で、門のみを撮影しました。

客殿(国宝)や庭園が有名のようです。

 

 

④ 微妙寺

もともと三井寺の五別所の一つで、別な場所にあったものを移転したようです。

 

 

この後、文化財収蔵庫に寄りまして・・・

(画像はないです)

 

 

⑤ 毘沙門堂 (重文)

元和2年(1616年)建立。

 

 

⑥ 十八明神社

別名 ねずみの宮です。

大乗戒壇建立の勅許を得たものの、延暦寺の強訴により取り消され、それを恨んだ頼豪阿闍梨が護摩を焚くやそのまま壇上で亡くなってしまい、八万四千のネズミとなって延暦寺へ押し寄せたという伝説があるようです。

その頼豪が化けたネズミを祀っているようです。

 

 

⑦ 南院札所伽藍

毘沙門堂の近くの石段を上ると、観音堂を中心とした諸堂があります。

 

中心となる観音堂(重文)。

西国三十三所観音霊場の第十四番札所。

建物は元禄2年(1689年)再建。

本尊の如意輪観音(重文)は秘仏で、33年毎に開扉されるそうです。

 

石段からも見えた観月舞台(重文)は、嘉永2年(1849年)建立。

 

絵馬堂(重文)は享和2年(1802年)再建。

 

鐘楼(重文)は文化11年(1814年)再建。

 

観音堂などの諸堂より下段にあった世継地蔵堂

先ほどの石段とは違う石段の中程に建ち、中阪地蔵とも呼ばれるそうです。

 

また、観音堂などの諸堂より上段に展望台があり、琵琶湖がよく見えます。

 

 

⑧ 水観寺

観音堂を降り、毘沙門堂前を通り、東に進んでいくと、このお寺があります。

三井寺の五別所の一つで、別な場所にあったものを移転したものです。

 

 

⑨ 護法善神堂

水観寺近くの受付から有料エリアの外に出て、無料エリアにある建物です。

鬼子母神を祀っているそうです。

享保12年(1727年)再建の建物との事です。

 

 

 

 

・・・ということで、三井寺をしまして、退出です。

こちら、護法善神堂の東にある門で雰囲気の良い門なので、撮影したのですが・・・

調べたけど、門の名前がよく分からず・・・ちょっとモヤモヤです。