展墓・・・
墓参りすること。
墓参。
10月19日(日)~21日(火)に甲府市に泊り、周辺を観光してまいりました。
初日は、まずは武田神社(躑躅ヶ崎館跡/武田氏館跡)に行きまして・・・
その後、そこから東方面ちょっと南に行ったところに、武田信玄のお墓があるのを知り、そちらへ向かってみました。
その信玄のお墓に向かう最中に、護国神社があります。
護国神社自体は行きませんでしたが、神社敷地内の道路に面したところに、ちょっとした碑がありました。
そこは、龍華山永慶寺跡とのことでした。
永慶寺は甲府藩主・柳澤吉保の菩提寺で、吉保のお墓があったそうです。
吉保の子・吉里が奈良の大和郡山への転封に伴い、永慶寺も移転し、ここの伽藍は全て撤去され、吉保の墓所は恵林寺に改葬されたそうです。
信玄のお墓に行く前に、その東にある円光院というお寺に寄ってみました。
信玄の4代前の信守が、その父・信重の位牌所として建てた成就院というお寺が前身です。
信玄が、小石和郷(笛吹市)にあった成就院を現在の場所に移し、京都妙心寺の説三和尚を招いて開山させたそうです。
信玄の正室・三条氏は説三に深く帰依し、ここを菩提寺としたそうです。
彼女の死後、その法名により成就院から円光院と改名したそうです。
その三条氏のお墓をお参りしました。
大河ドラマ『武田信玄』では信玄と三条氏の夫婦仲は微妙でしたが、実際には仲が良かったという記録があるそうです。
この後、本題の武田信玄のお墓・・・武田信玄公御墓所へ。
火葬した場所とも言われ、武田信玄公火葬塚とも言われているそうです。
徳川領進行中の武田信玄は三河の野田城攻囲中に持病の悪化により、甲斐へ帰国することになるも、その途中に信州伊那駒場で死去。
その死を3年間秘密にするよう遺言したと言われてます。
その3年間 仮埋葬していたといわれている場所がここで、土屋右衛門昌次の邸内になるそうです。
3年後、信玄の遺体は荼毘に付され、恵林寺(甲州市)で葬儀が行われたそうです。
なお、信玄は亡くなった伊那の駒場で荼毘に付されたという話もあり、実際の遺骸がどのようにされたのかはよく分かっていないようです。
信玄のお墓と言われるものも、全国に何ヶ所もあるそうです。
死を3年 秘せという遺言が、実際のお墓を分からなくしている原因のようです。
ちなみに、信玄公御墓所のすぐ近くに、川尻塚と呼ばれる小さな塚が民家の合間にあります。
武田氏滅亡後に甲斐国を治めたのは織田信長の武将・川尻秀隆ですが、本能寺の変により武田氏遺臣を中心とした国人一揆により、この地で亡くなり、ここに埋められたと言われているようです。
一般的に川尻が圧政を行い、甲斐国の民衆が恨んだとの話があり、そのためこの塚でも、遺骸は逆さにされて埋められたと言われているそうです。
但し、同時代の資料で川尻の圧政を記録したものはないそうです。
織田信長が武田領・武田残党に厳しい措置をとったことや、後に甲斐を治めた徳川家康をアゲるため、川尻がサゲられた可能性が高いと思います。
そして、この日の最後に訪れたのは、大泉寺というお寺です。
信玄の父・武田信虎がみずからの位牌所として建てたお寺だそうです。
信虎は信玄(当時は晴信)のクーデターによって甲斐国を追われ、娘婿の今川義元のもとへ追いやられ、義元の死後は京都や高野山などに流浪、信玄の死後に帰国を果そうとし、信州高遠で孫の勝頼と対面、でも帰国は叶わず高遠で没したそうです。
勝頼により信虎の葬儀は この大泉寺で行われ、遺骸もここに埋葬されているそうです。
信虎の墓との札が掲げられた廟がありましたが、その札をよく見ますと、小さな文字で「信虎、信玄、勝頼 三代の墓」とも書かれています。
あとでネットで調べてみますと、廟の裏に3つの供養塔があり、それぞれ3名を祀っているようです。
ということで、甲府初日の最後は何となくお墓参りになってしまいました。










