【い】一ノ谷(いちのたに) ;神戸の旅④ | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

公辞苑(ハムじえん)【第二版】

吾輩の辞書には「不毛」という文字しかない!

特にテーマもなく、徒然なるままに書き綴ってます。

8月10日(土)~12日(振)で神戸に行ってきました。

 

8月12日は須磨と呼ばれるエリアを回ってきました。

まずは、その須磨エリアの一ノ谷町に行ってみました。

あの一ノ谷の戦いの舞台の一つと考えられている場所です。

 

 

 

一ノ谷の戦い・・・

治承の内乱(源平合戦)の一つです。

源頼朝と木曽義仲の確執を見て再挙を計った平家は、旧都福原に東進み、東は生田の森、西は一ノ谷に堅固な軍陣を構えて、京都回復を目ざすまでになります。

そこへ木曽義仲を破った源義経・範頼が襲い、平家を海上に敗走させた戦いが「一ノ谷の戦い」になります。

 

ちなみに、「一ノ谷の戦い」の戦場の一つ生田の森の方は、以前の神戸旅行で訪問済みです。

https://ameblo.jp/numach-team/entry-12185479954.html

平家軍の主力の平知盛・重衡と、源氏の主力である源範頼の軍が生田の森で激突しています。

 

 

もう一方の戦場が今回散策している一ノ谷です。

こちらは源義経が一ノ谷の裏手の崖から奇襲をかけたことで有名です。

 

 

まずは上の地図にもある山陽電鉄本線の須磨浦公園駅を降り、国道2号沿いに西へすぐに行ったところへ・・・

こちらには敦盛塚という五輪塔があります。

平家の公達・平敦盛を供養するために建てられたという伝承があるようです。

平敦盛は一ノ谷の戦いの当時は16歳で、海上の船に逃れようとしたところ、源氏軍の熊谷直実に呼び止められ、取って返したところ組まれて討ち取られてしまいます。

熊谷が討ち取る際に、敦盛が自分の息子と同じ歳くらいであることに気づき、逃がそうとするものの、味方が近づいたことがあり、泣く泣く討ち取ったという逸話があります。

 

ただ、この塔は敦盛の供養のためのものではなく・・・

鎌倉幕府執権の北条貞時が平家一門を供養するために建立した「あつめ塚」が転訛して「あつもり塚」になったという説もあるそうです。

 

 

ちなみに、敦盛塚は須磨浦公園という公園の西端にあります。

その須磨浦公園は、国道2号と山陽電鉄本線に挟まれた東西に細長いエリアの公園になります。

 

国道の方へ目を向けてみますと、すぐ目の前が海です。

(その奥に走ってる路線は、JR神戸線です。)

 

この公園は、一ノ谷の古戦場にあたるようです。

源義経の奇襲を受けた平家軍は、この目の前の海を船で逃げってようです。

 

 

敦盛塚から公園内をゆっくり10分程度歩いて行きますと、山陽電鉄本線のガード下を走る道があり・・・

そのガード下を抜けると、北の高台へ向かう急な坂があります。

本当に急な坂で「全力坂」(参照:https://www.tv-asahi.co.jp/saka/で是非走ってほどです。

この坂の上のエリアに、安徳宮というお宮があるそうで、その名の通り安徳天皇を祀ってるようです。

安徳天皇(第81代)は、祖父が平清盛、父が高倉天皇(第80代)、母が建礼門院徳子(清盛の娘)で、3歳で即位しています。

その安徳宮を目指します。

 

安徳宮がなかなか発見できなかったのですが、途中で「内裏跡公園」なる公園を発見しました・・・

どうやら、安徳宮はすぐ近くのようです。

と言いますのも、安徳宮は安徳天皇内裏跡伝説地らしいです。

平家の都落ちと共に、安徳天皇も平家軍と共に彷徨う訳ですが、一ノ谷の戦いの時にはこの地に内裏が置かれたとの伝説があるようです。

 

実際に、公園の近くに「安徳帝内裏跡伝説地」との碑がありました。

 

ちなみに、その奥に見える囲いの中には・・・

和宮の像がありました。

和宮は、江戸幕末に公武合体の政略結婚のために、14代・徳川家茂に嫁いだ皇女です。

こちらは戦前に兵庫県立第一神戸高等女学校、兵庫県立第二神戸高等女学校、神戸市立第二高等女学校に寄贈された和宮像のいずれかの一つらしく、戦時中の金属供出を免れと考えられています。

ただ安徳宮とは直接関係はないようです・・・。

 

実際の安徳宮はこちらです。

壇ノ浦の戦いで平家が敗れたため、祖母の二位尼(平時子)と入水し、8歳で崩御されてます。

悲運の幼帝ということもあり、安徳天皇を祀ったお宮や伝承などが中国・四国・九州に多くあるように思います。

こちらもその一つなんでしょうね。

 

 

さて、安徳宮をお参りした後、スマホのGoogle Mapで近辺を見てますと、「逆落し」なる史跡(?)が安徳宮の南方にあることが分りました。

 

一ノ谷の戦いで、源義経が一ノ谷の裏手の断崖絶壁から逆落しを仕掛け、それが奇襲となり、大勝したことは有名ですが・・・

「鵯越の逆落し」と呼ばれ、鵯越という場所から仕掛けたと言われています。

鵯越の場所については諸説あるらしいのですが、一つはここから東へ8km程度行ったところにある鵯越(地名として残ってます)、もう一つが一ノ谷の裏手の鉄拐山の東南の崖とのことらしいです。

 

安徳宮が鉄拐山の東南山麓あたりになるので、Google Mapの「逆落し」が「鵯越の逆落し」の現場(の候補地)のように思えるのですが・・・。

とりあえず行ってみることにしました。

Google Mapをもとに狭い道を歩いて行きますと・・・

 

こちらが「逆落し」の場所当たりです。

急な崖なので、階段がジグザグと何段階にも折れてました。

 

途中の崖上からの景色はなかなかです。

 

崖下から、先ほどのジグザグ階段を見た景色です。

ちょっと分りにくいかもしれませんが、画像真ん中のやや上のライトグレーの部分が、ジグザグした階段坂です。

手前の坂入り口を見ていただいても、急なことはよく分かると思います。

 

この急な崖を下って、これが「逆落し」でもおかしくないと思ったのですが・・・

安徳天皇の内裏(安徳宮)が崖の上ですよね。

いわば、平家軍の一番守らなくてはいけないところ。

すると、逆落しの現場はここではないのかな・・・

Google Mapの「逆落し」って何だろう・・・。

(もっとも内裏跡も伝承地にすぎませんが・・・)

 

 

ちなみに、崖下を降りて南に進みますと、須磨浦公園の東端当たりに着きます。

ここには、一ノ谷の古戦場であることを示す源平史跡戦いの浜の碑があります。

 

 

一ノ谷の戦いは不明な点も多いようですが・・・それでも、ロマンを感じますね。

 

 

(須磨散策は続きます)