<覇道の男>国分寺/国分尼寺 編(14);豊後国分寺 /大分の旅⑨ | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

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吾輩の辞書には「不毛」という文字しかない!

特にテーマもなく、徒然なるままに書き綴ってます。

儒教では、武力による治世を「覇道」と呼びますが、ここは「制覇の道」という勝手な意味で使ってます。
そんな「制覇の道」、国分寺や国分尼寺を回ってみる・・・

国分寺/国分尼寺も実施中です!

(国分寺/国分尼寺・・・741年に聖武天皇が国家鎮護のために日本各国に建立を命じたお寺です)

 

 

7月半ばの三連休で大分に行ってきました!

三日目は大分市内の歴史的なスポットを回ってみることにしました。

 

まず最初に、この地の国分寺でも行ってみますか!・・・ということで、JR九州の久大本線(久留米と大分を結ぶ路線)で大分駅から4つ先の豊後国分駅へ。

ちなみに無人駅ですが、ICカードの読み取り機はありますよ。

 

この駅から歩いて数分のところに大分市歴史資料館があります。

こちらは、後ほど寄ることにします。

 

博物館の東側は広場になっていまして、ご老人方がゲートボールを楽しんでいました。

実は、そのゲートボール場は・・・

かつての豊後国分寺の敷地の一部でした。

 

ゲートボール場の手前には寺域を囲んでいた溝跡が見つかっており、それの一部が再現されてました。

東西182m、南北300mの広さを持っていたそうです。

 

ゲートボール場の東側に食堂があったそうで、その位置を盛土で再現してました。

ここは礎石建物ではなく、大型掘立柱建物だった分かってるそうです。

 

食堂のすぐ南側には講堂があったようで、こちらも盛土で再現です。

礎石も再現されています。

 

エリア内にあったこちらは、回廊跡を再現したものです。

金堂と中門を結ぶ回廊は寺域の南エリアをめぐっていたようです。

回廊内の西部に七重塔があったそうです。

それと、食堂、講堂、金堂、中門は一直線に配置されていたことが分っています。

 

旧豊後国分寺だったエリアの南部は、後継寺院の医王山国分寺の寺域になります。

中世の頃まで創建当初の伽藍をある程度保持していたらしいですが、その後に廃寺になったとの話もあるそうです。

江戸時代に天台宗の僧により再興され、現在は天台宗の寺院となってるようです。

 

現在の寺院の薬師堂がこちらです。

ここには旧国分寺の金堂があった場所になるそうです。

ちょうど講堂跡の南に位置し、先ほどの回廊跡も延長すれば、ここに繋がる形になります。

金堂時代の礎石の一部が、現薬師堂の建物にも利用されているようです。

 

も一つ、現寺院の観音堂がこちらですが・・・

旧国分寺の七重塔がここなあったそうです。

現観音堂の建物の周りには、七重塔の礎石が当時のままの姿で残っているとのことです。

 

この後、大分市歴史資料館に戻り、館内の展示を見ましたが、その中に 1/10スケールの国分寺の七重塔の模型がありました。

なかなか精巧です。

資料館は、国分寺関連の展示だけでなく、大分の古代~近世・近代のものに関する展示があります。

ちょうど行った時には、企画展で南蛮文化に関する展示もありました。

 

 

ちなみに・・・

豊後国分尼寺跡については、所在が分かっていないそうです。

 

 

 

今まで訪問した国分寺跡/国分尼寺跡

 

<国分寺>
畿内:大和、摂津?
東海道:三河、伊豆、相模、武蔵、下総、常陸
東山道:信濃、下野、陸奥
山陰道:出雲
山陽道:播磨、安芸
西海道:筑前、豊後

<国分尼寺>
東海道:三河、伊豆?、相模、武蔵、下総、常陸
東山道:信濃、下野、陸奥
山陰道:出雲
西海道:筑前