元号・・・
一般には年号と呼ばれます。
支那を中心とする東洋の漢字文化圏に広まった年紀法。
漢の武帝の時に「建元」と号したのが始まりです。
日本では皇極天皇4年に蘇我本宗氏を滅ぼしたのを機に孝徳天皇が即位して間もなく、この年を大化元年と定めたのが初めです。
次の元号が「令和」になったとこで、持ちきりだと思いますが・・・
ここで、元号について調べたことを・・・。
明治になって一世一元となって、天皇の即位によって改元となりますが・・・
それ以前は、即位などの慶事の他、天災などが起きた際に改元することで凶事を断ち切ったり、革命の起こると言われる辛酉の年・甲子の年の厄災を避けるために改元が行われてたりします。
例えば、多い例で言いますと、後花園天皇(第102代)の時には在位中に8回改元してるそうです。
(正長→永享→嘉吉→文安→宝徳→享徳→康正→長禄→寛正)
明治以前は、1223年の間に243の元号(南北朝時代のそれぞれの元号も含めて)があったそうですから、単純に計算しますと平均5~6年程度というのが実状です。
実際に、短い例で言うと、暦仁の2ヶ月14日、天平感宝の3ヶ月15日などがあります。
また、元年しかなかった年号(元日を跨がない)では朱鳥と天平感宝が該当するようです。
逆に20年以上続いた長いものとしては、延暦の23年8ヶ月8日、正平の23年6ヶ月27日、応永の33年10ヶ月8日、天文の23年2ヶ月9日、寛永の20年8ヶ月27日しかなく、一世一元以前はいかに改元が多かったかが分かると思います。
ちなみに、「天平感宝」にように四文字元号だった時期もあり、天平感宝、天平勝宝、天平宝字、天平神護、神護景雲の5つがそれに当たり、聖武天皇(第45代)~称徳天皇(第48代)の時代の20年ちょっとで使われてます。
支那で、唐王朝の高宗の皇后であり、その唐になり代わり周(武周)の女帝となった武則天が、四文字元号を使用しており・・・
聖武天皇の皇后である光明皇后がそれに倣って四文字元号にしたようです。
その後の孝謙天皇(第46代;重祚して称徳天皇)は聖武天皇の女性皇太子ですから、四文字元号は女性の強かった時代になりますね。
「大化」から始まった日本の元号ですが、大化→白雉→朱鳥と続きますが、時の天皇である天武天皇(第40代)の崩御後は新たな元号は定められず、次の元号である「大宝」が決まるまで15年ほど元号使用が中断されたそうです。
公式な記録に元号が使われるようになったのは大宝律令に定められてからのとこになるようです。
そんなこともあって、元号が定められますが、実際に元号の存在を知っていた人は限られており、庶民について元号の認知はなかったようです。
庶民にまで知られるようになったのは、江戸時代になって御触書が出るようになってからのようです。
また、御触書で出されるようになっても元号の読み方自体は明示されておらず、読み方もはっきりしてなかったようです。
近いところで言いますと、江戸幕府三大改革で有名な「天保」も「てんぽう」以外に「てんほう」と読まれていたようです。
実際に読み方が示されるようになったのは明治以降のようです。
まぁ、蘊蓄はさて置き・・・
自分も昭和→平成→令和と3つの元号を生きることになりそうとは・・・年取った証拠ですね。