【ふ】不破関(ふわのせき):関ヶ原な旅(11) | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

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特にテーマもなく、徒然なるままに書き綴ってます。

今年のゴールデンウィークは・・・
前半の三連休に岐阜に行ってきました。

関ヶ原を中心に旅をするのがテーマでして・・・
二日目は一日をかけて関ヶ原を回ってきました。

関ケ原町の関ヶ原の戦い関連スポット、壬申の乱 関連スポットと紹介しましたが・・・
最後に、不破関に関連するスポットを紹介したいと思います。

不破関・・・
壬申の乱で、村国連男依(大海人皇子の舎人)が不破の道を塞いでますが・・・
これにより近江の朝廷(大友皇子側)と東国の交通を遮断し、東国からの兵を大海人皇子の軍として動員できるようになりました。
これが勝因の一つであったようです。
壬申の乱の後の673年に、ここの重要性から関所が設置されるようになり、畿内を防御する役割を持つようになります。
また、畿内の政変等の際に、東国へ波及しないようにする役目ももっていたようです。
そんな不破関は789年に廃止となっています。
廃止にはなりますが、東山道(その後の中山道)を通過する人荷から関銭を徴収する関所として使用されていたようです。



さて、まずは不破関庁舎跡・・・中心建物があった場所ですが・・・
 
大海人皇子の兜掛石と沓脱石がある場所と同じところです。
掘立柱、瓦葺の建物が多くたっていたそうです。

この庁舎跡のすぐ東に東城門跡があります。

と言っても、説明看板があるだけですが・・・
関の東端に城門や楼があり、兵士が守りを固めていたそうです。

庁舎跡の南西すぐのところにあるのが不破関守跡です。

古代の不破関が廃止された後に、鎌倉時代に関銭を徴収する不破関があったそうです。
その関守の跡と伝えられてます。

関守跡の西方の崖の下に、西城門跡戸佐々神社があります。

西の城門のすぐ近く藤古川が流れてます。
不破関はこの川を利用し、自然の要害を上手く使ったようです。
戸佐々神社は不破関を鎮護する神として祀られた神社になります。

東城門跡を南に下っていきますと、鍛冶工房跡があります。

ここも説明看板があるだけで、遺構はありませんが・・・
ここからは炉壁や鉄片などが見つかっていて、鍛冶場があったと言われてます。

そして、不破関は周囲を土塁で囲まれてたようですが・・・
その土塁跡がいくつか見られます。

こちらは北限土塁跡です。

関ヶ原の戦いの小西陣地跡から南に行ったところあります。
東西460m規模で残っています。

北限土塁跡の説明看板近くから東に行ったところに東北角土塁跡があるそうですが・・・

はっきりした説明看板がなく、よく分かりませんでした。
地図を見て、土塁っぽいものがあったのでコレかな・・・画像は合ってないかもしれません。

鍛冶工房跡の西側には南限土塁跡がありました。

現在、東西112m残されてるようです。

この他に東限土塁跡もあったようですが、これは見損ねてしまいました。


ざっと不破関関連のスポットはこんな感じになります。


これで、関ケ原町にある観光スポットの紹介は以上です。
そして、今回の旅で回ったとこも、これで全部です。
後は、旅で食べたものを紹介して、このシリーズをお終いにしたいと思います。