前半の三連休に岐阜に行ってきました。
関ヶ原を中心に旅をするのがテーマでして・・・
二日目は一日をかけて関ヶ原を回ってきました。
前回に関ヶ原で回ったルートを紹介しましたので、今回以降は画像を中心に系統立てて紹介していきます。
今回は、徳川家康のが陣を布いた場所を紹介したいと思います。
その前に、関ヶ原の戦いの布陣を大まかに・・・
ちょうど良いものがあったので、貼り付けておきます。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/0/05/Sekigahara.png
下の画像は、桃配山の徳川家康 最初陣跡への登り口です。

桃配山には家康本隊 約3万の軍勢が陣取っていました。
現在はすぐ脇に国道21号が通ってますが、近くに旧中山道も通ってます。
桃配山は主戦場からは2㎞強~3kmくらいの距離があり、やや遠いような気もしますが・・・主戦場との間は平地です。
桃配山の後方には、山間部で直線距離4㎞くらいのところ(南宮山中)に毛利秀元軍1万5千を始めとした西軍の大軍が控えてました。
毛利家家臣の吉川広家との密約により毛利勢が戦いに参戦しないことになってましたが、万が一のことを考えると、前(主戦場)ばかり気にすることができず、後方(毛利軍)にも注意が必要です。
ただ、前方は平地で3㎞、後方は山間部で4㎞って、けっこう絶妙な場所のような気がします。
後方の毛利勢が密約通りに動かなければ、平地で3㎞先の主戦場へは時間がさほどかからず行けますし・・・
後方の毛利勢が攻めてくる気配があれば、山間部の直線4㎞という距離はそれなりに時間がかかるはず・・・いざとなったら、近くの中山道を使って戦場から離脱のできる・・・
そんな絶妙な位置に思えました。
家康は謀略を用いて、戦う前から西軍に裏切り者や傍観者をつくりますが・・・
実際の戦場では、その密約だけに頼らず、勝ち負けのどちらにも対応できるような場所に・・・
さすがです。
桃配山の山腹に最初陣地との石碑が設置されてました。

近くには家康が使ったといわれる腰掛石と机石もあります。

ちなみに、桃配山から主戦場方面の眺め・・・

あまり眺望はよくありません。
実際の家康の本陣は石碑のある山腹ではなく、頂上にあったと推測されてるそうです。
さて、主戦場の後方の桃配山にいた家康本隊ですが・・・
主戦場は東軍と西軍が一進一退の戦いを繰り広げ、西軍がやや押してるような戦況を見て、桃配山を降りて、西方の主戦場へ進みました。
最終的には、床几場・徳川家康 最後陣地というところまで進んだようです。

西軍がやや有利の中、西軍の南宮山の毛利勢や松尾山の小早川勢が動かないことを見て・・・
西軍にプレッシャーを与えるのと、東軍の士気を高めるための前進だったんでしょうね。
その後、西軍の小早川勢の裏切りにより東軍が勝利したことはご存知だと思います。
勝利後に床几に腰かけ、戦勝報告や首実権を行ったことから床几場と呼ばれるようになったそうです。
ちなみに、最後陣地は開戦時に東軍の田中吉政が布陣してた辺りです。
そして、現在は近くに関ケ原歴史民俗資料館があります。