三渓園へ行ってみました。(三渓園は_実業家であり茶人でもあった 原三渓によって作られた広い日本庭園。本牧の海っぺたにありながら まるで「山の中の離宮」のような雰囲気~。)

↑「上大岡」から地下鉄で「桜木町」へ。そこからバスで「三渓園入口」、+徒歩数分~ で門に着いたところ。/ すでに西日がかげり始めていました。
↓チケットブースで入園券を買って、門の中へ。

↑門の先、右手に検札所。
いやー どう考えても 訪ねる時間、遅すぎ ですね^^;)

さて、今いるのは「外苑」という 造園当初から一般に公開されていたエリアです。



↑池の向こうの小山の上に 三渓園のシンボルともいえる三重塔、「旧燈明寺(日蓮宗)三重塔」。(1457年(室町時代)に建てられたこの塔、 元は京都府木津川市兎並(ウナミ)の燈明寺にりました。/尚 現在は 三重塔だけでなく本堂も失っている燈明寺は 実質廃寺状態ですが宗教法人は存続している、との事です。)
今回は 記念館で開かれていた企画展「拝啓、三溪先生―松永耳庵と原三溪」 を見に来たのですが_
(まだなんとか)明るいうちに 外を歩きましょう。

↑↓ここは「鶴翔閣(カクショウカク) /明治35年建築」


原三渓の住まいとして建てられた建屋。園内でもっとも延べ床面積が広く、現在は結婚式場に使われています。

(↑この日は貸し出し中で 見学できませんでした。)
「内苑」と呼ばれるエリアに入ります。

↓「御門(1708年頃)」元は 京都は平安神宮近くの西方寺という寺にあった物とか)。

↑この門より先が「内苑」。 原三渓のプライベートエリアとされ かつては非公開だった、そうです。


正面の唐破風を持つ建屋は「臨春閣(リンシュンカク)」の「玄関棟」です。/あの向こうに素晴らしいお庭と それを鑑賞するために作られた建屋群があります。
↓がまずは右手前の「白雲邸」入口、を見ましょう。

門の上には「白雲邸」と 左から 書かれた板。(ちょっと意外?)揮毫者はなんと松永耳庵です!


ここは原三渓が「隠居所」として 大正9年に建てさせた建屋、の玄関部分です。/原三渓が 自分のために作った家ったら一体何にこだわったのかー さぞや趣深い凝りに凝った造り? かと思いきや 洋間や電話室 シャワーつきの浴室があるなど、当時としては結構モダンな家だった模様~。/ 裏手の蔵は鉄筋コンクリート製で 大正12年の震災にも耐えた、そうです。(非公開)
改めて 「臨春閣」へ。

(↑この日は 内部非公開)

↓お庭の方へ回ります。(右手前-第一屋、左奥-第二屋。)



↑紅葉をしょった「亭榭(テイシャ)」、美しい。(亭榭というのは 屋根付き建屋の載る見晴台、の事で、ここにある亭榭は 「京都は高台寺の『観月台』を真似て作られた物~」 と言います。)
↓第二屋。



↑縁側には 左「波華(ナニワ)の間(伝-狩野永徳/複製)」、右「琴棋(キンキ)書画の間(狩野探幽/複製)」、と書かれた板が置かれていました。
↓「波華の間」。

↓(右側)「琴棋書画の間」。

↓玄関棟に続く 第一屋の内部。


↑奥の欄間の波模様、見事。
↓第二屋、「琴棋書画の間」前の縁側から 硝子越しに見る亭榭。



池を周り亭榭の方へ行ってみます。

(↑臨春閣/ 右から「玄関棟」、「第一屋」、「第二屋」。)
(↓臨春閣/ 「第三屋」。)

(↑亭榭と第三屋の間に チラと見えるのは「聴秋閣」。/後で見学します。)

↓ここまで来てわかる事ですが、臨春閣の第二屋の縁側は 池に張り出していたんですね。



↑第三屋。
(臨春閣は 元は岩出市の紀ノ川沿いに建っていた 紀州徳川家の別荘「巌出御殿(イワデゴテン)」~ だそうです。原三渓はこの建屋が 大阪に移築され「八州軒(ハッシュウケン)」と呼ばれていた頃に買い取り ここ横浜へ再移築していますが、その間 十数年もかかっており、 オリジナルの建屋の並び とは異なっている箇所もあるようだ、との事。/ 今見る建屋群は 完璧な調和を見せていますが、創建当初の姿も又 気になるところ・・・。)
↓この後 記念館内で見た 移築前の「八州軒」の建屋の写真+図面。(現「第二屋」)


池の端に沿って歩いて行くと_

亭榭の手前に小さなお堂がありました。

↓五七の桐の意匠、


↓華やかな渦巻く雲の文様、蓮を持つ飛天のレリーフ。

小さいけれど 格調高く立派なお堂です。「旧天瑞寺(テンズイジ)寿塔覆堂(ジュトウオオイドウ)」という物だそうです。

↑説明板。
「旧天瑞寺寿塔覆堂
建築年:桃山時代 天正19年(1591)
移築年:明治38年(1905)
豊臣秀吉によって造られた建物で、内部には秀吉の母・大政所の生前墓である寿塔が置かれていました。桃山時代らしい豪壮な彫刻の扉や柱などの部材には建築された当初には鮮やかな彩色が施されていましたが、現在は一部にその跡が残るのみとなっています。
この建物があった天瑞寺という寺は京都・大徳寺の中にありましたが、明治時代の初めに廃寺となり現在は存在していません。
三渓園の内苑に最初の移築された建物です。」_ へ~。
お堂の近くにはこんな附属物(?)も。


↑お地蔵様のレリーフのついた石灯籠。

↑これは何だろう?表面に蓮の花びらが彫られた鉢。水盤? 焼香用の香炉かな?
ではいよいよ(?)亭榭を渡ります。


↓唐破風部分。/瓦に見える紋は「太閤桐」のヴァリアント?

↓橋から見る 臨春閣-第三屋。

では 第三屋を拝見しましょう。

↓建屋手前に個性的な手水鉢。

「瓢箪文(ヒョウタンモン)手水鉢」ですって。

↑「豊臣秀吉の愛用と伝えられ、のちに藤堂高虎に与えられ、伊賀上野城にあったといわれる手水鉢です。」との事。へー。

第三屋は二階部分を持っているんですね?


↑西から中を覗いたところ。/手前が「天楽の間」、奥が「次の間」。
↓南から見た「天楽の間」。

↓次の間。


↑ちょっとわかりにくいのですが、この花頭窓の形に抜かれた壁の向こうに 二階へ上がる階段があります。二階には「村雨の間」という部屋があり、池越しに丘の上の三重塔が見える「それはもう」な展望と聞きますが、限られた時しか公開されていないみたいですね?
臨春閣から 裏の山へ上がりましょう。


石段の先に見えてくるのは「月華殿」。

↓原三渓自身の筆になるという文字。

元は「慶長8年(1603)に徳川家康が京都伏見城内に建てた諸大名の控えの間」で、 後に宇治の三室戸寺(ミムロトジ)金蔵院(コンゾウイン)に移された と言います。/ 大正7年にここに移築されています。


時に_ここでは観月の会が開かれたのでしょうか?(ググってもヒットしないのですけれど^^;)


月華殿の裏手には 茶室がありました。


↑「金毛窟(キンモウクツ)」。/ 床の間の柱に 京都 大徳寺の「金毛閣」という山門の手すりの古材が使われていることにちなむ名、だそうです。
茶室の西には「天授院」なるお堂が。


↑鎌倉の建長寺の近くにあった心平寺の地蔵堂だった というこのお堂は、原家の位牌を置く 持仏堂として使われた、そうです。/ 尚「天授院」は原家の初代の戒名、とか。
丘を下ります。

続いては「聴秋閣」へ行ってみましょう。









↑見る角度によって全く異なる「顔」を見せる不思議な建屋。
↓説明板。

↑「聴秋閣
建築年:江戸時代 元和9年(1623)
移築年:対象11年(1922)」
(抄)元は京都 二条城の中に建てられ 後に春日局に与えられて稲葉家の江戸屋敷に移築された という建屋。移築前は 三つの屋根を組み合わせた会場から「三笠閣」という名称だったそうです。
↓入口から入った先が 土間 ならぬ 木製のタイル敷きなのは「舟遊びの際に水辺から直接上がり込むための空間」として作られているから、らしい。

では ここからは 展望と紅葉を求め 細い谷川に沿って作られた 斜面地の遊歩道を上がります。(動画で~。)




小さな橋からの眺め。




道なりに進むと、聴秋閣の向こうに 三重塔が見えてきました。





短いコースですが 「歩く価値ある小径」 でした。
長くなったので 一旦ここで区切らせて頂きます。/ つづく