(10/3の「スタンプ帳2頁目」~のつづき、になります)
さて、東京駅を出た私達は_
まず有楽町へ向かいました。

駅を出たら こんな子がいたのだけど・・・
赤べこ(←病魔をはらう色とされていた赤色の胴体に 天然痘を表す黒い斑点が描かれた、子どもたちが病気にかからないようにという願いがこめられた 福島の郷土玩具) の白バージョン?

↑右のパネルに「_この赤べこの色は、景観に寄り添い、街づくりが進む有楽町の「未来」をイメージしたカラーになっています。」とありました。(いや 赤のままでこそ って思うんだけどー・・・)
↓あ、見に来たのは こちら。/ 日比谷のTOHOシネマズ横の~



ゴジラ!


(亭主、今から11月公開予定の『ゴジラ-0.0』を楽しみにしておるのです・・・)
この後は ガード下を潜ってー

熊本県のアンテナショップ前を通ってー


↓銀座SIXへ。(私達の世代にはまだ「松坂屋銀座店」跡地、な感じ?)

何でも屋上にお稲荷さんがあるそうでー。

行ってみましょう。
(↑館内の吹き抜けでは 英国の現代美術家ジュリアン・オピー氏(←Blurのベスト盤のアルバムジャケットのデザインをした方) によるLED映像インスタレーション「Marathon. Women.」が公開されていました。面白く思って撮ったのだけれど 諸々の事情で消音にしております。)
エレベーターで屋上へ。

↓木立に囲まれた空間。

↓床面を水が流れています。(水桟敷)

銀座で見る 空の青 木々の緑_。なんだか不思議。

↑水に入って遊んでもOK、との事でしたが もう涼しい季節・・・。
↓木立の向こうは回廊のようになっていました。


↓五丁目交差点側を見下ろす。


↑ユニクロ ↓ティファニー。

↓北に四丁目交差点。

↓北の回廊から目を凝らすとスカイツリーも見えた。

(後から知りましたが 南西へ回れば東京タワーも見えたそうなー)
回廊を東へ歩くと_

お稲荷さんがありました。

京都の伏見稲荷より勧請され、かつて松坂屋銀座店の屋上に鎮座していたお稲荷さん、です。


んー 狐さんは見えませんが・・・。
↓説明板。

「靍(←鶴の異体字)護(カクゴ)稲荷大明神由来記
抑(ソ)も当靍護大明神は今を去ること百五十年の昔、文化十二年(1815)は如月の午の日、山城伏見の本宮(=京都伏見稲荷大社)より勧請して江戸の根岸の里(←現・荒川区東日暮里)に奉安す。
爾来(ジライ)店主店族は素より江戸市民の深き信仰を蒐(アツ)めて今日に至れり。
明治十四年(1881)の或る夜 神守の親爺(オヤヂ)は神殿附近に於いて白狐を認めたるがその跡に一巻の掛軸遺留あるを発見し怪しみて繙(ヒモト)けば畏(カシコ)くも三州豊川稲荷大明神の尊像にてありしかば直ちにその由を店主に告げて神霊と共に奉祀して今日に及べりと伝う。
大明神は霊験 洵(マコト)に顕(アラワ)にして特に火防の神として世々附近住民の難を救はせ給へる事一再に止らず。
近き例に徴するも去る大正十二年(1923)九月関東大震災亦大正十四年(1925)三月日暮里の大火に当り既に危く見えたるにも拘わらず神域社殿は勿論松坂屋舎宅の凡(ス)べて無事なるを得たるは今尚世人の耳目に新たなる所なり。
昭和四年(1929)己巳(キシ)の春二月十八日、二の午の吉辰(キッシン)を卜し日枝神社宮司に請うて神霊を分霊し地上八十尺(約24m)の本館屋上に奉安して茲(ココ)に遷座の式を行えり。
昭和四十年(1965)四月十五日誌(シルス)
松坂屋銀座店 」
<+>
社号「靍護」については_
松坂屋の創業者、名古屋の呉服屋-伊藤家(いとう呉服店)が江戸の根岸(現-東日暮里)へ進出した時分(1768年)_ 日本橋に 伊勢の松坂出身の木綿問屋-長谷川家の「亀屋」(1725年に江戸店を出店)があったので、対になる「鶴屋」と呼ばれたそうです。/ そこから 鶴を護る という願いを込めて「靍護稲荷」にした~ という話が伝わっています。
↓隣に松坂屋銀座店跡、のパネルもあった。

勢いで(?)写します。
「松坂屋銀座店は、関東大震災の翌大正13(1924)年12月、銀座復興の先陣を切って、銀座初の百貨店としてこの地に開業した。
地上8階、地下1階、高さ約43mの建物は、当時銀座一の高層ビルであった。その後、増改築を重ね、街の近代化を示すランドマークとしての役目を担ってきた。百貨店の大衆化を加速させた土足入場の実施、家族連れで楽しめる屋上動物園の開設、ファッションと機能性を先取りした制服の完全洋装化、モータリゼーションを見越したエレベーター敷パーキングの併設・・・。
これらは、いずれも松坂屋銀座店が先鞭をつけたものである。
平成25(2013)年6月30日「銀座六丁目10番区第一種市街地再開発事業」に基づき、90年の歴史に幕を閉じた。」
↑読み応えありました!
(ちょっと疑問がー
上の稲荷の由来所に 昭和4年「地上八十尺(約24m)の本館屋上」に遷座 とあるのに、
下の大正13年に建てられた松坂屋銀座店の説明板では「高さ約43mの建物」と書かれています。(高さ43mの建物の屋上が24mというのは簡単には納得できない_)/ 稲荷社が置かれた屋上~は 「昭和4年(1929)4月1日開店、の 松坂屋上野店の 新店舗-本館 (7階建て)」ではないでしょうか?⇒*
ただ_この昭和4年竣工の上野の松坂屋本館屋上の「高さ」はググっても出て来ず 確かなところ は分からぬままなのですが_)
続いて向かったのは~

↓森田座跡。

(先日『木挽町(コビキチョウ)のあだ討ち』を観て ちょっと江戸の文化に興味をもつようになっているアタクシタチでございます。)

↑写します。
「森田座跡
所在地 中央区銀座六丁目13・14番地辺り
江戸時代、この地には官許の芝居のうち、江戸三座と呼ばれ、歌舞伎を興行した森田座の芝居小屋がありました。この辺りは木挽町五丁目と呼ばれており、森田座のほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋である土佐座がありました。これらの周りには芝居茶屋が集まっており、賑わいを見せていたようです。木挽町の名は、江戸城築城時に多くの木挽職人(木材を大きな鋸で切る人が居たことによるようです。
森田座は、万治三年(1660)、森田太郎兵衛によりこの地に創設され、以後座元は代々「森田勘弥」を名乗りました。森田座は、堺町(サカイチョウ)、葺屋町(フキヤチョウ/現中央区人形橋人形町三丁目辺り)にあった、江戸三座の中村座、市村座とともに、天保十三年(1842)から十四年にかけて、猿若町一丁目から三丁目(現台東区浅草六丁目あたり)の町をつくり、そこに移されました。後に、安政五年(1858)「森田座」改め「守田座」となり、明治五年(1872)、現中央区の新富に移り、同八年に「新富座」と改称しました。以後、明治十二年の興行失敗から、同じ三十年までに「猿若座」「桐座」「深野座」「都座」などと頻繁に名称がかわったようです。明治三十年新富座に復名、同四十二年には松竹合名会社に買収され、大正十二年(1923)の関東大震災で焼失し、森田座の血脈を受け継ぐ芝居小屋は途絶えてしまいました。
平成十三年(2001)、ここから約1キロメートル北東の京橋二丁目遺跡から、森田座の入場券である木札が出土しました。我が国を代表する文化である歌舞伎の芝居小屋が中央区で発祥し、これに直接関わる考古資料として極めて重要なものであることから、平成十七年四月に中央区民文化財として登録されています。
平成二十五年三月
中央区教育委員会 」
なぜ銀座に森田座跡が? と思ったのですが そっかー、元々はここ 木挽町だったんですねー。 (+ もりたざ が 読む資料により森田座だったり守田座だったりする事 どうしてだろうと思ってましたが、 江戸末期に字が変わったんですね? スッキリ^^)
この後は東銀座の歌舞伎座のショップで買い物をしたのですが_

その話は頁を改めて、にいたします。