山王神社(別名「星月夜の社」)と境内の水準点 | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

続いて向かったのは(↓下の地図では「真ん中の矢印」になる)山王神社(サンノウジンジャ)。(山王神社は全国に沢山あるので 区別するため地名を冠してこちらの社は「浜町(ハマチョウ)山王神社」と呼ばれる事があります。)

↑国土地理院のMAPによると 水準点は 歩道上か境内の歩道側にある~ みたい。

歩道にはそれらしき物が見つけられなかったのでー 


境内へ。


↑社号標。
↓その裏手に手水舎。


(↓社号標の台部分に芳名板。「奉納 発起人 昭和二年五月」の文字も見えます。)

↓西側の玉垣裏には 玉垣の奉納者の芳名を刻んだ石板がありました。


↓社殿へ向かいます。

↓強そうな狛犬さん達。


↓男千木と鰹木の載る屋根。


↑鰹木の先 大棟に三つ巴の神紋(←山王神社にしては珍しい?)。
↓虹梁に龍。


↑眼光鋭い龍です_。
↓鈴の奥に扁額。

↑社号「山王神社」の右に「星月夜ノ社(ホシヅキヨノヤシロ)」の文字。/ 星月夜ノ社 というのは 小田原の山王神社の別名、です。これは旧社地に「星月夜ノ井戸」という井戸があった事に由来するのですが~ その話は下で 改めて。

御祭神(大山咋命、少彦名命、大山祇命)にご挨拶。(こちらは御祭神も日吉大社とは少し違っているんですね?)



社の西側に神社についての説明板がありました。


写します。
「星月夜(ホシヅキヨ)の社 山王神社
祭神  大山咋命 少彦名命 大山祇命
由緒  明応四年(1495)二月北條早雲は、小田原城主大森藤頼を破り、小田原城を手中に収め、相模の国を平定した。
 その頃の山王神社は北条家の郭内で山王曲輪(サンノウクルワ)と称え、海辺なる袖の池ノ南 袖ヶ藪(←下に載せた絵地図には「振り袖影(?)」と読めます) にありしが暴浪のため、その地崩潰(ホウカイ)せしかば、慶長十八年(1613)九月十八日現地に移せりと。
 旧社地に星月夜ノ井戸ありしより、一に星月夜ノ社とも称ふ。其の井戸も移して現地にあり。天正十八年(1590)小田原陣のとき、徳川家康は日々参詣ありし由、又旧領主大久保氏の祈願所にして元禄中再建の用材は昌洙永世寄進の証状ありしと。
 寛永元年(1624)四月四日江戸初期の朱子学者林羅山(ハヤシラザン)(←徳川方のブレーン、「方広寺鐘銘事件」で有名?)は山王神社境内にて星月夜の詩を詠む。その詩にもある如く、当時の山王神社は星月夜ノ社といわれ、小田原の名所なりしと、井戸も再現いたし、地底より湧き出る水面に浮ぶ大空の星影映る往昔の姿こそ誰が神秘といわんや。この歴史ある社とともに、星月夜ノ井戸を史跡として長く後世に伝えん。

一、明治六年七月三十日 旧足柄県に於て村社に定められる。
一、大正四年十一月一二日 神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
一、五月五日 例祭 」

羅山が詠んだ七言絶句(シチゴンゼック)はこちら↓

「乱峯掩蔽廣寒宮
 石隕自天晴似震
 若把衆星比燈火
 箱根山眼百千籠」
↓AIが読み下し文も表示してくれました。
「乱峯(らんほう←ぽこぽこした峰が連なる箱根山の事)は広寒宮(こうかんきゅう=月の宮殿)を掩蔽(えんぺい)し、 石隕(いしお)つることは天自(よ)りして晴(は)るるも震(ふる←雷雨)うに似たり、 若(も)し衆星(しゅうせい)を把(と)って燈火(とうか)に比(ひ)せしめば、 箱根山 眼(まなこ)にす百千(ももち)の籠(こ)」
_箱根の山に月が隠れ 澄んだ夜空には降る様に落ちる流星がよく見える。もし星々を集めて灯りにしたら 箱根の山には沢山の籠が見えるかな?(みたいな感じ?間違ってるかも ごめんなさい。が、ともかく_)
羅山さんは 深い井戸を覗いてこの歌を詠んだんじゃなく (旧暦四月の流星群の頃の)ここからの景色を詠んだのでしょうね?/1624年に羅山さんがここへ来た時には すでに「旧社地にあった」という星月夜ノ井戸は失われていた、のですし・・・。

↓再現された星月夜ノ井戸。

(旧社地の井戸もこんな形だったのでしょうか?)

境内には他に_

↑神輿蔵? や ↓お祭りの備品?

_などがありましたが、 私達的には 「これを見ねば!」な物が。


忠魂碑の南の「水準点」です。

↑しかし「水準点 と書かれた札」はすぐ見つかりましたが 肝心の水準点が見つからない。
↓が、思い出したのだ、紀伊神社の水準点を。


↑こんな感じで~ 四つの自然石に囲まれた中心点に それ はある、ハズ。
↓で 山王神社境内の「四つの自然石」の真ん中を掘ったらー・・・


↑出てきましたー! / が紀伊神社のそれのようにメタルのプレートはありません。石の突起がある のみ。 昔は石の「ポイント」だったのかな?
↓ともかくこれが 山王神社境内の水準点_「5.8m」に間違いなかろうと思います。


水準点横の説明板も見ましょう。

↑左に「旧山王原村の図(及び網一式村)」というタイトルの絵地図がありますが、 へー 山王神社の旧社地 は東海道(現国道一号線)を南へ渡った所、なんですね? (↓補足/上の神社の説明板で「袖ヶ藪」となっていた地名が ここでは「振り袖影(?)」になっています。)


図の右には この地域の歴史年表(一部時系列通りでは無いところも_)が書かれていました。

・明治六年 学生発布。国民皆学により効率山王小学校創立、本村弘経寺を假用。
・明治二十六年 新校舎を今の所に建て酒匂小学山王原分教場となる。
・明治十五年 酒匂橋が初めて木橋で完成した。(従来は冬季のみ土橋)
・明治二十年 新橋=国府津間に鉄道が開通した。
・明治二十一年 国府津=小田原=湯本間に馬車鉄道が開通する。
・明治二十二年 町村制施行、小田原は五ケ町を統一して小田原町となる 村には字名(アザメイ)がつく。
・明治三十年 横浜=熱海間に汽船が開通する。(小田原海岸経由)
・明治三十三年 国府津=小田原=湯本間に電車開通。日本で四番目、神奈川県で弐番目 運行距離では日本一を誇る。(この年初めて小田原に電灯がつく)
・明治三十五年 九月一鉢日 午前十時 小田原大海嘯起■。酒匂村、死者三十三名。家屋流出百八...
・大正九年 熱海線が小田原まで開通して、国府津=幸町間の電車は廃止となる。
・大正十二年 九月一日午前十一時五十八分 関東大震災 マグニチュード七.九 相模湾北部を震源 酒匂村... ... ... 」

↑_山王だけでなく 小田原の歴史にも詳しくなれる説明板でした。

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この後は400m程東の「東町交番前(バス停)」を目指しました。