まずは、見学に先立つ学習会「もっと知りたい!御用米曲輪」を聞きに 市民交流センター-UMECOへ。


講師は戦国時代の小田原に関する著書もお持ちの 小田原市文化財課課長 佐々木健策さんという方。(←リンクは2019年のタウンニュース記事。データとしてはちょっと古いのですが 佐々木さんが紹介されていたのでリンクを張りました。)
↓御用米曲輪というのはお城の本丸曲輪の北(天守閣の北東)の広場っぽい区画、です。

↓下の 資料の表紙写真だと「小田原文化財課」の文字の下の 発掘中~ な場所になります。

(↑お土産の缶バッジ(来場者バッジかな?)に写っている「立った石」は北条時代の庭の物~ ですって。)
さて、御用米曲輪は江戸時代に「幕府の御用米の蔵」があったので この名で呼ばれているのですが、調査で それ以前 の(そしてそれ以外の)多くの事がわかってきた~ と言います。
例えば 「寛永小田原地震(1633年)」の痕跡(地割れや 穴が途中でズレた井戸)が見つかり、これを地層上でマーキングする事ができたんですね。
これによって 今ある小田原城が 地震の年_1633年-城主が稲葉氏の時代(1632~1675)_以降に建てられた 事がはっきりしました。
それ以前の地層からは 北條4代 氏政(1538~1590)の館の庭の一部_それも先代である父-氏康(1515~1571)が存命中のものではないかという、カラフルな石をタイル状に敷き詰めた庭 石で縁取りをした池 小砂利を敷いた広い「たたき」、などが出てきています。大量のかわらけ(←素焼きの食器)も出土していますから 大勢で利用した場所だったのでしょうね?
ともあれ_
そんな訳で 同じ場所に異なる時代の遺構が出た事から、お城の呼称からしての 見直しが必要になったようです。
学習会の資料では 小田原城は_
・1633年以降の「小田原新城」
・1590年~1633年の「江戸時代初期の小田原城」
・1501年~1590年の「北条氏の時代の小田原城」
・1501年以前の「小田原古城」
_と「区別」されて載っていました。
- - 大まかな事を教わったところで、現地へ移動 - -
↓現地でもらった小冊子。(表紙に写っているのは缶バッジと同じく 北条時代の石の庭。立てられている石は 適当に立てた物ではなく「立てるための穴も見つかっている」_つまり かつて立っていたように立てた石、 との事でした。)

↓北の入口から御用米曲輪に入るところ。


↓南に天守閣。


↑遺構上のテープは 時代ごとに色を変えている、そうです。/こんなに「重なって」いては 完全復元は無理。どの時代かを選ばなくてはいけない???
↓白っぽく見えているのは 戦国時代後半 の砂利敷き。

更に昔の地層からは8世紀の土師器甕、縄文時代中期の土器、旧石器時代の石核なども出土している、そうです。
↓集合場所のテントで展示されていた出土品。






(↑左下に見える「笄(コウガイ)」は 曲がってしまったもの、かな? 小柄(コヅカ)と合わせて 江戸時代のお侍さんの 落とし物 でしょうね?)
ここからは3班に分かれ それぞれ学芸員さんからの説明を聞きながら曲輪内を歩いたのですがー 雨が降ってきたため、 傘にあたる雨音で説明はよく聞こえず 学芸員さんが指している(らしい)パネルも見えずでー 内容、ところどころ~ しかわかりませんでした^^;)
が、 それでもこれは分かりました。
「発掘に関わる人がみな強い関心をもっている『北条氏の時代の建屋跡』は、
これまで計10回にも及ぶ発掘調査が行われてきているにも関わらず 未だに発見されていない。もしかしたら 江戸時代の蔵跡の下、を掘れば出土するかもしれないが、 これはこれで保存されねばならない遺構。もどかしいところだが これ以上の発掘は諦めざるを得ない_。」
__ んー 残念ですが しかたありませんね?
天守の裏へ上がる道(←後年付けられたもの)の際で見つかった「瓦積塀(カワラヅミベイ)」。(この頃 雨がちょっと上がってきてました。)


↓(パネルに見る)出土時の様子。

↓北側から。(現在は埋め戻され 復元された「瓦積塀」のみ見える状態になっています。)

(↑地面に埋め込まれている 丸が描かれた円盤型 のものは「掘立柱」の位置を示しています。)
瓦積塀に使われているのは 1703年の「元禄小田原地震」で被災した瓦 と思われる~、 との事でした。


↑たったこれだけ の物ですが この曲輪で認められる唯一の 江戸時代から残る建屋の痕跡 だそうです。
これで見学会は終わり。
引率して下さった学芸員さんが「みなさんは この 色んな時代の遺構がみつかった 御用米曲輪が、今後どのように 保存 あるいは 公開 される事をお望みですか? よろしければお声をお聞かせ下さい。」と言ってツアーを締めくくられました。
そーねー、 私的には カラフルな石が敷き詰められた北条時代の庭園を復元して 公開してほしいかな~。とも思いますが そのために 江戸時代の遺構が取り除かれてしまうのも残念。(本丸曲輪の天守と調和しなくなりますしね。)
いっそ、全部埋め戻して ピクニックエリアに??? (実はこの御用米曲輪、 結構お花見に向いてるんですよねー。)
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↓以下は 雨が上がった後も曲輪に残った亭主が撮ってきてくれた絵です。(私は先に帰ってご飯作ってましたー)))


↑「小田原新城」の「蔵5」の跡。(埋め戻されています。/ もしかしたら この下に 戦国時代の居館跡が???)
↓「小田原新城」の遺構 2号溝。/曲輪の本来の範囲を示す物 のようです。(埋め戻されています)


↓北条氏の時代の遺構、2号池。(埋め戻されています。)


↓北条氏の時代の遺構、1号池。(埋め戻されています。)


↓北条氏の時代の遺構、2号切石敷遺構。(埋め戻されています。)


↓北条氏の時代の遺構、3号切石敷遺構。(埋め戻されています。)


↑ここの写真が パンフの表紙や 缶バッジのデザインに使われていたんですね?
↓北条氏の時代の遺構、6号井戸。(埋め戻されています。)


↓北条氏の時代の遺構、かわらけ廃棄土坑。(埋め戻されています。)


あー 「北条氏の時代の、3号切石敷遺構」を 実際に見てみたかったなあ。/ 又公開される日は 来る のでしょうか? (もう埋め戻してるのだから 無理、かなー?)
御用米曲輪は、平成22年(2010)に発掘調査が始まる前は「駐車場」でした。その前は「野球場」だったそうで、駐車場の縁には雁木風の応援席が残ってましたっけねー。⇒*(遠い目_)
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<おまけ>
↓お城の二の丸の北の 「商工会議所」跡。/ 先ごろ解体工事が終了し 今は更地になっております。(多分 景観を守るため今後もこの 更地 のまま残されるのだと思います。)

↓西隣に建つのは 旭丘高校(アサヒガオカコウコウ)。



↑因みに、江戸時代 ここ(商工会議所が建っていた所も 旭丘高校が建つ場所も)は 蓮池(お城の堀の一部)だった場所、だそうです。 その蓮池の中の小島に弁財天(ベンザイテン)が祀られていた事から 池の北の通りは 今も「弁財天(ベザイテン)通り」と呼ばれています。↓

_どんどん 街の様子は変わっていきますが、存外「道」や「地名(通り名)」などは変わらずに残るもの ですね? // おしまい。