↓横浜駅からベイ・クオーターを抜けて 陸橋を「ポートサイド中央」交差点の方へ歩いているところ_。

(↑奥に見えるトスカーナのヴィラっぽい建屋は「リストランテ マンジャーレ ウォーターエッジ YOKOHAMA」)
↓陸橋を下りたところに 不思議なオブジェ。

(↑グーグルレンズ先生によると_「THE FAMILY(ザ・ファミリー)」
作者: イタリアのデザイナー、エットーレ・ソットサス
特徴: 建築物や都市を考えるための「道具」として構想され、機能のない飾りではなく、空間に意味を与える意図で制作されました。
_との事。 へー。(文字かと思って一生懸命読んでたー)
道なりに進むと~、 もう着いた。

ここがミュージアム。

チケット代を払って入館します。
館内撮影OKでした。(どころか「SNSに上げて下さい」とまで書かれていましたよ・・・)

白状すると 何も知らないままに来ましたが_

ここは京都は真葛ヶ原(マクズガハラ/東山山麓の地名)出身の宮川香山(ミヤガワ コウザン/本名-虎之助 1842年-1916年)という陶工が明治初期に横浜で興した「眞葛焼(マクズヤキ)/別名 横浜焼」という焼き物のミュージアムで_、作品を鑑賞しながら 宮川香山について_ 眞葛焼について_ 学べる場所、なのでした。
何はともあれ 作品を拝見。(本当は受付近くに置かれた数点の焼き物が一番見応えがあったのですが、残念ながらケースが光って どうやっても撮れなかったー。)

(↑創業当初の眞葛焼はこの様に 立体的でデコラティブな物が多かったそう。)
(↓作品は 客の好み を反映して色々に変化していく_)




(↑撮れてませんが、壺の縁の蟹の写実的な事と言ったらー)
↓国内向け作品/仁清(ニンセイ)・乾山(カンザン)写し


(↑香炉や香合)
↓和室に飾られた作品を拝見します。







奥の展示スペースへ。(めくるめく眞葛焼の世界~)


(↑↓↓んー ライトの当て方、ちょっと変えて頂きたいかもー)








(↑この立体感が凄い!)

(↑なんと この狸は「酒器」でした_)
改めて_説明板を読んで参りましょう。
↓「宮川香山の眞葛焼」

(↑「初代宮川香山は、明治4年に輸出用の陶磁器を制作するため、現在の横浜市南区 (かつての横浜太田村字富士山下)に眞葛窯を築きました。横浜から海を渡った眞葛焼は海外で絶賛され、世界中で開催された万国博覧会で輝かしい受賞を重ねます。香山は1896年(明治29)に陶芸界で二人目の帝室技芸員に任命され、現在2点の作品が国の重要文化財に指定されています。(⇒黄釉銹絵梅樹図大瓶 ⇒褐釉蟹彫刻大瓶)
優れた功績を残した香山ですが、眞葛焼についてはその全貌があまり明らかになっていませんでした。明治時代、海外で高い評価を受けたため、その多くが輸出され、国内にあまり作品が残されていなかったからです。また二代、三代と続いた眞葛焼ですが、横浜大空襲により、三代香山が亡くなり、多くの資料が失われてしまったことも大きな原因となっています。これらが、ときに「幻のやきもの」と評される所以なのです。
当館では、日本で発見された作品のみならず、近年になりアメリカ、イギリス、フランス、オーストラリアなどで発見され、里帰りを果たした作品も数多く展示しております。これらの発見により、香山が横浜に釜を築いた明治初期から、他界する1916年(大正5)までの作品を調査、研究することができ、作風の変遷などが明らかになったのです。
世界で愛されたやきもの「宮川香山の眞葛焼」。その魅力を感じて頂ければ幸いです。」
↓「初代宮川香山 京都から横浜へ」

(↑初代宮川香山は、1842(天保13)、京都で代々やきものを生業とする家に生まれ、育ちました。父は眞葛ヶ原に窯と築き、名工と言われた長造です。香山は(中略)1860年(万延元)、19歳のときに父と兄を相次いで亡くし、陶工として家を継ぐことになります。
以来、香山の腕前は広く知れ渡ります。薩摩藩家老である小松帯刀(タテワキ)から「苗代川(ナエシロガワ)焼の改良のために薩摩に来てほしい」と依頼をされるほどでした。このとき薩摩行きを決意した香山でしたが、1870年(明治3)、小松が34歳の若さで病死したため、それが実現することはありませんでした。
(↑飛ばしてもよいエピソードのようで 飛ばせませんねー)
そんな香山に再び転機が訪れます。薩摩の御用商人梅田半之助から「御維新で貿易はますます発展してくる時期だ。横浜に来てくれまいか」と、横浜で輸出用の陶磁器を製造してほしいという依頼を受けるのです。これをい受け入れ、1870年(明治3)、29歳であった香山は横浜に移住します。)
↓「困難を極めた横浜での創業」

(↑やきものを製造する伝統がなかった横浜では、陶土を入手する手段が確立されておらず、香山は2年がかりで、寝食に苦労しながら陶土の探索を行いました。知人からは「横浜などで窯ができるものではないから京都へ帰った方がいい」と懇々と勧められましたが、横浜に窯を築くという固い決心は変わらず、ついに伊豆天城の梨本、として秦野(ハダノ)などで陶土に適する土を発見しました。そして1871年(明治4)、香山は資金提供を受け、太田村富士山下(現在の南区庚台(カノエダイ))の千坪の敷地に窯を開き、眞葛焼を創業します。そして初代宮川香山は、外国人のニーズを巧みに読み、時代に合わせてその作風を変えていきながら、室の高い作品を制作し続けていくのです。)
↓「世界に愛された眞葛焼」

(↑眞葛焼が初めて海外の万博に登場したのは1876年(明治9)、フィラデルフィア万国博覧会でした。花瓶や香炉に、蓮や蟹、部ビや鼠の細工を施した作品は、高い評価を受け 装飾部門において銅牌を受賞し、大きな成功を収めます。)


↑太田村の工房には 沢山の工人が働いていたんですねー。/興味深く見た事です。
小さいけれど 大変見応えのあるミュージアムでした! お訪ねして良かった。 (しかしこれほどの技、今受け継ぐ人がいないのは 残念ですね...)
HPのデジタルアーカイブの頁で 多くの作品を鑑賞できます。是非ご覧くださいませ⇒*