
↑広い敷地を持っているのに、
↓門のある入口部分の幅がめっちゃ狭くて 逆に驚きました。


(↑実際の敷地外周がどうなっていたのかはよくわかりませんでしたが_ 館内に展示されていた写真によると 少なくとも旧山手通り側 は「鉄製フェンス」だったようです。)
↓図、右上の噴門の様にすぼまった所 が入口、です。

↓表側からはわかりませんが、門柱上のライトの裏には 「渋谷会議所」の文字。

詳しい事は渋谷区のHPの案内頁⇒*を。(頁下に詳しいPDFファイルが)
~という訳で ざっとですが_
渋谷区猿楽町に建つこの立派な日本家屋は、「東京府議会議長や渋谷区議会議長を歴任した朝倉虎治郎によって、1919年(大正8 ←大正7年 着工)に建てられた~」そうです。
が1944年に虎治郎が亡くなると 相続税のため_
1947年・建物と南側の庭園が社団法人中央馬事会に売却され~
1948年・GHQの命令で中央馬事会が解散させられ 農林大臣公邸となり~
1957年・経済安定本部の公邸となり~
1964年・名称が「渋谷会議所」となって 今日に至っている、そうです。
(補足/ そしてその後、1995~2000年にかけて修理・補修工事が行われ、2004年に国の重文の指定を受け、2006年に渋谷区が 管理団体 になり(所有者は文部科学省)、2008年から一般公開が始まった~ んですね。)
門の先の券売所でチケット代を払い、リーフレットを貰って~、


ゆるりと回るアプローチを進みます。(いきなり主屋が見えないようにしている、んでしょうね?)

↓左手に「車庫」が現れました。


↑写真と現状が違ってる~のですが、写真は「管理棟」として使われていた頃のもので、「創建当初の姿煮復元しました。」のだそうです。/ なるほどー。

(↑スペース、二台分はありますよね?)
↓その先に 庭への門が見えました。

庭は後で見る事にしてー
↓母屋玄関へ向かいます。

東に向く 玄関。

(↑んー 玄関に影 というのがちょっと残念。左手の木が育ち過ぎているかもしれませんね? とそれはおいておいて)
堂々としたむくり屋根です。

飾り瓦と懸魚には火伏の波の意匠。丸に木瓜は朝倉家の家紋でしょうか。

時に、1919年(大正8)に建てられた家というと気になるのが 1924年(大正13)の関東大震災での被災度合いですが_
なんとこの家、地震の影響をほとんど受けていない と言います。(すごい!地盤のせいか 建築のせいか 知りたいところ。)
館内へ。(靴を靴箱に入れてー。)


↑館内図。(右が北)
「順路」に従い、玄関の南側の「応接室」から見ていきます。

↑↓東の廊下。

↑廊下に張り出した書院障子の_裏。(欄間の透かしは曲水に羊歯でしょうか?)
↓その隣の襖。(銀箔が押されているようです。)


↑振り返ったところ。(お客様はここから入室した、のかな?)
↓畳廊下の先。板戸の戸袋の内側には (開けたてを容易にするための)引戸つきの口が付いていました。


その東にお手洗い。


↓南の板張り廊下。

↓窓の外の濡れ縁の先には手水鉢が置かれていました。
ところどころ板戸が閉められて暗いのですが、ここが応接間の南側 になります。(暗くしているのは もしかして 冷房がないから?/ それとも畳や襖が陽に焼けないように?)

↓応接室 室内。



↑違い棚のバックに明かり取りの障子って ちょっと珍しいですね? 下の戸袋には金を押した下地に 鮮やかな緑の松が描かれています。 床柱は「四方柾目」、(チラとしか写ってませんが)天井は屋久杉と 良材にこだわっている~ そうです。
↓東の廊下から「裏」を見た、書院障子。

応接間の西の廊下から見た庭。

↑右手は仏間や寝間など 主の私的空間でしたが、「渋谷会議所」時代に それらをぶち抜いて「第一会議室」なるものに作り替えています。/正面に見える棟には「杉の間」と呼ばれる三間の座敷があり、これは虎治郎が府議会 区議会の議長職にあった時代には 陳情などを聞くのに用いられた~ そうです。
二階へ上がります。


↑振り返ったところ。吹き抜け風の空間がモダンで御洒落ですね?
↓北の廊下に展示されていた 板戸。(大きなボタンが描かれた華やかな物です。作者は小猿(コエン)雪堂という人だそう。)

北の窓からの眺めー。

いや、周囲はコンクリートの建物に囲まれていて景色~ は特に良い訳ではないのですが、

複雑なイラカの重なりは面白かったです。

↑あのケム出しのついてる棟は台所でしょうね? 中も見せてもらえるかなー?(と期待しましたが 台所は見学できませんでした_...)
↓二階の南の廊下。

窓からの眺め、
↓右手が「杉の間」、

↓左手が(さっき見学した)「応接間」、です。


↑応接間の上の むくり屋根。
↓二階の東の間(12畳半)。

華やかな絵の描かれた襖。意匠は 説明板によると「桜と柳」との事でした。

(↑桜は_形は桜なんですが 黒い色のため桜らしくない んです。経年劣化で色が変わったのかしら? 白い部分は八重桜かな?その上の薄緑が柳、なのでしょう。)
↓東の間から見た 奥の西の間(15畳)。

↓西の間は 広く 又書院も持っています。

↓南の書院障子の枠は花頭窓風。

↓違い棚の上下の天袋・地袋にはお目出度い扇の絵。

↓北側の書院障子も唐様ですね。

この格式高い部屋は 公的な接客に用いられたよう~ との事。
二階の西の端には 御手洗もありました。


↑えー? ついたてを付ける位置 間違ってない? と思ったのですが 後で館内図を見たら 衝立の向こうにも便器が取り付けられているようでした。(右の便器は渋谷議会所時代に増設されたものかも?)
↓手洗い用シンク。

一階へ下ります。

下りてすぐ右手の部屋は「納戸」となっていましたが、畳敷きでした。(元々畳敷きだったのかな?それとも「渋谷会議所」時代に改変されたのかな?)


中庭の北側には 板戸の締められた棟。

(↑ここは非公開エリアですが リーフレットによると 手前(東)が 「元食堂」、奥(西)は「面皮部屋(家族部屋)」、だそうです。)
↓庭の向こうに屋根付きの渡廊下が見えます。


↑渡廊下の先は「土蔵」です。
↓中庭の南の畳廊下を西へ進みます。

↓畳廊下から見た 中庭。

↓畳廊下の西の先には「茶室」なる部屋がありました。/ が、非公開で 暗くてよく見えません。真ん中の半畳がどうなってるのか気になったので、スタッフさんに「真ん中はどんな炉になってるんですか? 大炉ですか?」と尋ねたら ここは煎茶用の茶室で炉は切られていない との事でした。(へー。煎茶の茶室や設えについて もっと知りたいなあー)

↓その右手は「円窓の部屋」。 ここも非公開でした。

畳廊下から 南の棟_三間続きの「杉の間」に入ります。

↓ここはリーフレットには「奥」と載る北の部屋。


↑なぜか斜めってる地袋。(省スペースのアパートとかだと時々斜めった造り付け戸棚 とかありますけど、この豪勢なお屋敷で「省スペース」はあり得ません。デザインとしてこの「斜め」が採用されているのでしょうね???)
↓北の壁には詫びた雰囲気の「下地窓」がついていました。

↓隅に置かれていた「杉の間」についての説明パネル。(写真はこの家を建てた朝倉虎治郎。)

↑「玄関左手の応接間、2階の広間は書院造りで、長押(ナゲシ)が鴨居(カモイ)の上に打たれています。正式の接待を行う部屋の意匠は書院風にするのが習わしでした。一方、杉の間は東側の角の一間は書院風ですが、奥の二間はくだけた意匠をもつ数寄屋(スキヤ)風の座敷としています、特に南の部屋は。あらゆる杉材の木目を「板目(イタメ)」で見せる一風変わったものです。 徹底的に「板目」を使って木目を強調した座敷は類例がないといわれています。」
(↑最後の一文 手直しの後がありますね? 英文も一部書き換えられている? 元は何って書かれていたのだろう? ちょっと気になるー)
ではその南_リーフレットでは「表」と載る部屋へ。


↑ほう、これが「板目」にこだわった部屋、ですか。
↓面白い事に、軒に「網代」が使われていました。(網代は茶室など 屋内の小部屋の天井には時々見ますが この様に室外に用いられているのは初めて見ました。)


↓ここは三部屋ある「杉の間」のうち「角の杉の間」と呼ばれる部屋。南・東・北の三方が板張り廊下に囲まれています。(北面は障子はついているものの 出入りはできない造り。)/ 虎治郎が最も気に入っていた部屋~ ですって。

↓北西の角が 面白い造りになっています。

↓違い棚。

↑地袋に「伎楽面カルラと横笛」の彫刻。(全然撮れておりません・・・)
↓天袋には「林檎の花」の油彩画。

↓障子。

↓欄間部分に「柏の葉」、


と「ヒレンジャク」。

_これも「油彩画」だそうです。
「角の杉の間」前の廊下から見た庭。

↑正面が「応接間」、左の南面する濡れ縁を持つ所は「第一会議場」です。
↓「第一会議場」、内。(ここは締め切り空間で クーラーがきいていました。 正直ほっとしましたよー)


(↑前庭側。)
↓「第1会議室」の説明板。

↑「当館が朝倉家本邸に使用されていた当時、この部屋は(東側から)寝間、中の間、仏間の和室3間で、庭側は畳廊下になっていました。
その後、中央官庁渋谷会議所として使用されていた時期に洋風の会議室に改造されました。」
↓パネル。


↓「朝倉家の歴史」。

↑右の写真_、虎治郎が立つのは「弓道場」前、との事。どこの弓道場だろうと思ったのですが、下の「建物配置図(下が北)」に「弓道場」が載ってるんですよ。(敷地南の断崖地)/ ひゃー。
左の「米穀商時代」とある 敷地内に米俵が積まれた写真は_、多分バックが「旧山手通り(現・都道317号線)」でしょう。通りに面しては洋風の鉄製のフェンスがめぐらされていたみたいですね? (オマケ/建物配置図の真ん中あたりの緑の長方形部分は「運動場」って書かれていました。どんな事に使われたのでしょう?
↓「重要文化財への指定」。

↑ここに興味深い記述が_
「大正12年(1923) 関東大震災により土蔵の漆喰が崩落し、外壁が鉄筋コンクリート造となる。」
これは逆に 主屋はほぼ無傷だった 事を示しているんですよねー。(すごい)
↓「建物の特徴」。

(今更、という気もしますが 増築の順番など この説明文で初めて知った事もあるので 写します。)
「旧朝倉家住宅は、木造2階建てで、ほぼ全室が畳敷き、屋根は瓦葺、外壁は下見板張り、一部が漆喰塗りとなっています。明治時代から昭和30年頃までに建設された大きな邸宅の特徴を顕著にあらわしています。
主屋は2階建ての大規模な建築です。1階南側に10畳の仏間、12畳の中の間(居間)、10畳の寝間(現在は一室の会議室に改造されています)、北側に何度、女中部屋、事務室がそれぞれ並んでいます。2階は15畳、12畳半の二間続きの広間があります。
主屋1階は家族の日常生活の場であり、年中行事などで正式に客と迎えるときは、玄関左手の応接間(和室)を用い、玄関右手の洋間は、来客や執事の事務のためのスペースでしたこれに対し、北側の部屋は、家族や使用人が使用しています。2階は虎治郎が好色にあった先、会合などに使用されていたと思われます。
西側の廊下の先に杉の間(三間)があります。杉の木目を意匠のテーマにした趣味的な数寄屋座敷で、投手はここで陳情など私的な客を応接しました。
家政を司るために、奥に2階建の大きな土蔵を造りました。また、後に子供が増えたとき、北側に台所や食堂、家族室(面皮部屋、現在は管理事務室)を増築しました。」

(↑中庭は 後から中庭になった~ みたいですね?)
↓「庭園の特徴」。

↑「旧朝倉家住宅の庭園は、大正時代の和風住宅に対応した、庭の姿を随所に残している基調な作例です。庭園は前庭(玄関前)、主庭、中庭(坪庭)に大別されます。
主庭は、西渋谷台地の崖線部にあるため、斜面とその上部平地からなり、敷地外の眺望を借景として取り入れ、富士山や目黒川、田園風景が望めるような構成になっていました。
主屋からは、額縁に入った絵を見るような庭の景観が意識され、三田用水から引用して流れと小滝を廃止、また各種の石灯籠や景石を多用するなど、この時代の作庭の特徴を示しています。
植栽はアカマツを主木にカエデ類を廃止、スダジイ、シラカシなどの常緑樹を交えた雑木林風の景観が意図されていました。現在は主木の枯死、実生の繁茂、庭樹の大径木化などにより変化していますが、元の姿にもどすように努めています。」 なるほどー。
見学を続けます。
↓建屋北側の「内玄関」。


(↑左の下駄箱は造り付けでしょうか?)
↓内玄関を入った所から 第一会議室裏の廊下を見たところ_。

↓畳敷きの「事務室」。



↑金庫!
↓板張りの廊下側。(廊下の左が「内玄関」、正面は襖がついていますが「洋間」です。)

↓「洋間」。/ 建屋の北東の角、の部屋になります。

洋間といいながら 天井は折り上げ格天井。


↑中央にアカンサスの意匠の木彫。洋館だと鏝細工で作られる部分が「木」というのが いいですね。/ここには 元々はシャンデリア型の照明がついていた、のかな?(洋館の天井の鏝細工の下は 大抵シャンデリアですもんね?)
↓板張りの床には絨毯が敷きつめられていましたが 元々はどんな使われ方をしていたのでしょう?

↓説明板。

↑旧朝倉家住宅に洋館はありませんでした。家族や財閥とは違い、洋式の大規模な宴を開く必要がなかったからです。しかし立派ば洋間を一部屋だけ玄関脇につくりました。来客ように洋式の接待が出来るようにとの配慮からです。一部にだけ洋間をもつ邸宅は多く存在しました。この洋間は家や商売に関わる日々の来客への応対、執事の事務のための部屋として使われていました。当時の床は板張りで、上げ下げ窓など洋風意匠の特徴が見られます。」
(↑写真には「経済企画庁時代に使用していた事務机」が写っていますが、床がどんな状態か よくはわかりません。ベージュの毛足短めのカーペット、かなー?)
_館内の見学は ここまで。
長くなったので この後見た庭部分の絵は 次の頁に貼ろうと思います。