曽屋(ソヤ)水道記念公園(旧曽屋配水場) | おだわらぐらし

おだわらぐらし

縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

曾屋神社に続いては_



神社の 県道を挟んで南、にある

曽屋水道記念公園(旧曽屋配水場)」へ行ってみました。


↓入口上に「秦野水道発祥の地 / ~1890年(明治23年)3月15日給水開始~」の文字。


↑右の柱には「曾屋水道記念公園 / 国登録記念物(遺跡関係)」と記されたプレートがついています。

敷地に入ってすぐの左側に _ 役目を終えた機械類が陳列されていました。

もうこれは「アート」と呼んで良いクラスのもの。(ほぼ「オブジェ」)

↓元々は台部分に説明板が付いていたようですが 字が薄くなって読めません・・・。

(↑何でしょう、送水管と繋がっていたようですけど・・・)
↓これは 

機械本体に「ゐのくちポンプ / EBARA MFG.CO.LTD.  1950」と刻まれたプレートがついていました。

↓この部分は_

三菱の「密封ベアリング(ポンプの軸受け)」ですって。


↑ちょっと顔みたい^^)

↓入口(ほぼ)正面の 一段高く土が盛られているところが かつての配水池 のようですね?(後でわかりましたが、 これは「昭和期」の配水池跡、でした。)

↓説明板「秦野水道の創設 =曽屋水道=」

↑明治12年のコレラの発生に 住民の間で危機意識が高まり、上水道が敷設された~ そうです。
文中に「簡易陶管ヲ使用シテ水道ヲ敷設シタルハ曽屋水道ヲ以テ嚆矢トナス」 「衛生ノ道ヲ講ズルト同時ニ土地繁栄ノ基ヲ為シ全国ニ自営ノ範ヲ示スベシ」とありますが、実際この水道事業は、 明治23年3月15日_ 横浜・函館に次いで 全国三番目に給水を開始した~ という誇るべきもの。

↓プレートの地図部分、面白い。このエリアでは 上水用の他 色んな水路が掘られ 交差していたんだー。

(↑話それますが_ 貯水池の北(図では左)に「城光院」というお寺があります。もしかして明治の神仏分離令以前 曾屋神社の位置にあったお寺とか かしら(もしそうなら護国神社の建屋が仏式なのもうなづけるー) と思ったのですが 、こちら 江戸時代までは「堀山下」という別地域にあったそうです_...)

明治23年当初の水道施設は こんな配置になっていたようです_。

↑左から 円形の「沈澄池」、三つの枡の「濾過池」、長方形の「貯水池」。

その後 大正14年に 敷地南部分(上の図の濾過池・貯水池の上)に 地下埋設型の配水池が、 昭和35年に その北(図の沈澄池の上)に 更にもう一基配水池が作られています。

説明板の右手に 更なる説明板~。

↓左が「国登録記念物(遺跡関係)」、

(↑今見られる配置が記されています。)
↓右が「土木学会選奨土木遺産」についての説明板でした。

↑「名称 秦野・曽屋水道施設群
  登録日 2020(令和2)年11月18日
  登録対象 
  ・配水池(大正期、昭和期)、ポンプ室(大正期)
  ・ロ号(ろごう)水源開口部(1888(明治21)年)
  ・ハ号(はごう)水源開口部(1914(大正3)年)
(ロ号、ハ号の位置は頁 上から三枚目の地図に載っております。)
  
・ポンプ・上下水道用陶管等展示物
 秦野・曽屋水道施設群は、(公社)土木学会において「住民主体の簡易水道としては全国初めてであり、明治・大正・昭和と続く、我が国の水道技術の推移を今に伝える貴重な土木遺産」との評価を受け、曽屋水道の竣工130年にあたる2020(令和2)年度の土木学会選奨土木遺産に認定されました。
(後略) 」
(補足/ 『秦野観光スポット情報』の「曽屋水道記念公園(旧 曽屋配水場)」という頁によると_ 明治期に設置された陶管や貯水池は 2023年(大正12)の関東大震災の折に破損したため、その後 「陶管は鉄管へ、貯水池は地下式配水池へ」と作り直されたそうです。)


↓昭和期の配水池の説明板。

↑「竣工 昭和35年9月
 給水人口の増加により、新たに地下式有蓋鉄筋コンクリートの配水池が増設されました。
 内法(ウチノリ)の長さ 約15.3m、幅約11.5m、深さ約3.3mで 防寒のため盛土をして表面に芝を張りました。」

↓配水池の上には_ 真ん中にオブジェが置かれていました。(円形の植え込みは 明治期にここに作られた「沈澄池」を模ったもの、でしょうか?)

↑えーと、、、 皆で上がる気球を抑えてる???
↓いや違う、下に説明文がついていました。

↑「秦野水道100周年記念像
 むかし、大勢の人たちが力を合わせて建設した曽屋水道が通水してから100年を迎えました。
 この輝かしい歴史を誇る秦野水道を支えてきた多くの人々の苦労や喜びに想いをはせ、ここに記念像を設置し、末永く構成に伝えようとするものです。
   平成2年3月 」
そっか 多くの人で 地固めをしてるんですね?

作品タイトル、「よいとまけの歌」ですって。(丹沢野外彫刻展出品作品 / 作者は 中垣克久さん)


南東の 大正期に作られた給水池も見ましょう。

↓説明板。

↑「配水池(大正期) 竣工大正14年11月
 関東大震災の復旧工事により、ここに、地下式鉄筋コンクリートの配水池が新設されました。
 内法の長さ54尺(約16.4m)、幅36尺(約10.9m)、深さ9尺4寸(約2.8m)で、防寒のため盛り土をして表面に芝を貼りました。(大正時代はまだ建築に尺貫法が使われていたんですね?)
 さらに8基の換気筒、側壁に7ヶ所の通風孔が設けられました。」
↓東の角に不思議なコンクリート製の箱型の ドア を持つ何か。


↑地下への降り口、かなあ?

↓大正期の貯水池の上には 

ツリガネニンジン が群生していました。

近くに立てられた札に「_皆様のご配慮をよろしくお願いします。」と書かれていました。(ツリガネニンジンは元々はありふれた野草でしたが 近頃ではめっきり「珍しい」ものになってきているといいます。大切にしましょう。)

(↑春のツリガネニンジンの若葉はトトチと呼ばれ お浸しや天ぷらにされます。/この立て札によってツリガネニンジンがかえってピンチになったりしませんように・・・)

ここには こんな物も置かれていました。 手動式ポンプ_。まるで オブジェ のようですがー

↑台に「この水は飲めません」という注意書きが貼られていましたから「現役」のポンプだったもよう。(貯水池は今も水を蓄えているんですね?)

さっき見た 地下へ下りる階段入口(?)の横には 貯水池と同時期に設置されたポンプ室も残されていました。


↑「ポンプ室(大正期) 竣工大正14年11月
 配水池と共にポンプ室も併設されました。 鉄筋コンクリート造りで、20馬力(ゐの口式タービン)の消火栓用ポンプ1台と電動機1台、予備として同様のタービンポンプとガソリン発動機が描く一台ずつ配置されていました。
 有事の場合には、2台を連結して使用するようにしていました。建物は中央を仕切、一室を事務室として利用していました。」
(↑目の前のL字の建物は 左の斜めの屋根を持つ部分の裏手に 大きなパイプがついているので こっちがポンプ室、かな? でも正面の平たい屋根の部分は正面に扉があるだけで 窓が無いんです。事務室には不向きと見えるのですが・・・。うーん。 )

大正期の貯水池の上から 昭和期の貯水池を見たところ_。


二つの貯水池を持ち 周辺に上水道水を配水していた曽屋配水場ですが 昭和58年(1983)にその役めを終え、公園として整備されて現在に至っている~ んですね。

おや、昭和期の貯水池の右(東/道路側)に 石碑が立っています。


むーん 残念、上の「記念碑」という題字しか読めません・・・。

(もしかしたら裏面に色々豊かな内容が彫られていた???)
石碑については よく「わからぬまま」でしたが、
その脇には小川が流れていました。


↑優しい雰囲気の 自然のままの(と見える)せせらぎ_。
↓きっとここを頼りに生きている小さな生き物たちがいるハズ。(昆虫 魚類 両生類 爬虫類 鳥類~)


この 小さいけれど豊かで大切なサンクチュアリが 長く守られますように。


にしても_
思いのほかに見どころ多く面白い公園で 秦野の事が「もっと好きになれる場所」でした。

(実は たまたま~ でしたが) 立ち寄ってみて良かったです。/おしまい。