(南足柄市)沼田にある浄土宗のお寺 西念寺で「七夕」に因んだ講演 ⇒* を聞きました。
↓境内北に駐車場。

↓門。



↑石段脇に六地蔵、 ↓その隣の石造物は庚申さんのようですね?

石段を上ります。

↓寺号標には「壽傳山 西念教寺」とあります。以前は”教”の字が入っていたのかしら?(右は萬霊等(塔))

門を潜ります。



(↑山号が記された額。揮毫者欄の二十四世って今のご住職でしょうかね?)
↓参道左寄りには 南無阿弥陀仏と彫られた石柱。


↑他の面にはお地蔵様が。
↓奥の墓地の塀側に並ぶのは寒念仏供養塔。

右手には鐘。(奥は庫裏)


(↑飛天が彫られているようですね?)
↓その先に手水舎。

二槽式?(左が手水用とかかしら?)

(勝手がわからなかったので奥の水道を使わせて頂きました^^;)
↓脇に水連の葉の入った手水鉢。

↓石畳の先に庫裏のお玄関がチラと見えていました。

庫裏の前には蓮池もあるようです。


本堂へ伺います。

花頭窓の形の入口を持つこのお堂の名は「三昧道坊」。

↓堂内には極楽のイメージの装飾が~。(特に小壁の壁画、素晴らしい。)

(↑お断りして撮らせて頂いております。/ が本堂外観を撮り忘れました・・・)))
講演というのは_
(仏教の御説法ではなく) 「日本天文学会主催『全国同時七夕講演会』(日本天文教育普及会共催)」 というもの。
で これがとても面白かったのです。
_尚、西念寺本堂会場の講師は 長崎大学名誉教授 勝俣隆先生、でした。(←小惑星22346番の名前「Katumatatakashi」は この先生のお名前、とか)
先生からは 天文学と民俗学 文学の流れのあわいの領域の~
なぜ たなばた が 七夕 なのか
なぜ 織り姫と彦星は年に一度七月七日の夜しか会えないのか~
そもそも 七という数字のもつ意味は~
などなどなど という話を伺いました。
(・『うつぼ物語』に登場する「御髪(ミグシ)すまし」についてのお話では 先生が「鴨川に写る天の川~ ここから 古代の人は 天の川の流れが鴨川に注いでいるのだと感じていたんですね~」と語られるのを聞き、 都の風物詩が「天文」と結びついていたとは~と 感動した事でした。
(・『金色夜叉』の 寛一のセリフ「来年の今月今夜のこの月を~」についても、 今まで何とも思っていませんでしたが 当時民間で使われていた太陰暦では 日にちと月の月齢が一致していましたから 「来年の今月今夜のこの月」は その時二人が見上げている月と同じ月齢の(形の)月_ のはずだったんですね? / ところが この小説が書かれたのはすでに日本で「太陽暦」が使われるようになってから。 もし宮(ミイ)さんが太陽暦のカレンダーを使っていたら 翌年の1月17日の月齢は~ という話。 (勝俣先生は 『金色夜叉』の連載が始まったのが明治30年1月1日~というところから その前年からのデータを教えて下さったのですが 明治29年の1月17日の月齢は6.6。(←月没19:24なので夜の熱海の海岸から見るのは難しい?) 明治30年の1月17日の月齢は13.9で ほぼ満月 南中23:07。だそうです。尾崎紅葉がイメージしたのは この ほぼ満月の月 だったのかも? そして 寛一が曇らせると予言した 翌年-の月は 月齢24.3、月没11:57。夜は見る事ができません 宮さんは「本当に月が曇らされた」と思ったかも^^;) ま、この話は逆に 明治時代の人にとっては(少なくとも情緒的には)まだまだ 太陰暦が主流だったという事を 表している~のかもしれませんね? / 因みに『金色夜叉』のこの熱海の海岸での離別シーンを描いた絵では 大抵空に「ほぼ満月」が描かれているようです_←17日の月は 明治の日本人には月齢17、と感じられた?)
あと、興味深かったのはイスラム圏の暦(純粋太陰暦)。12ヵ月で構成されていますが 一年が354日なので 毎年11日ずつ ズレて行く~のだそうです。(そうかそれでラマダンの時期が毎年違うんですね? 30年で一回りする~ といいますが、四季のはっきりしない国々だと それでもそんなに困らない のかな?)
_勝俣先生、沢山の楽しいお話 ありがとうございました。
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本堂 入口近くにこんな案内板がありました。

↑「天野康景(アマノヤスカゲ)と西念寺
駿河の国(静岡県)の興国寺の城主天野康景は、小さい頃から徳川家康に仕え、関ケ原の戦いなどでよく働いてきました。
三万石の城主になってからのこと、興国寺の近くにある将軍家の領地(天領)の領民が興国寺の竹を盗んだので、康景の家来が傷を負わせてしまいました。(実際は「切り捨て」だった模様)そしてこの家来の処罰をめぐって、両者の間がこじれてしまいました。
康景は家来をかばい、三万石の城主の地位をすてて、箱根山にかくれてしまいました。
小田原城主大久保忠隣(タダチカ)がこれを聞いて、領内の沼田西念寺に康景をかくまいました。康景はここで亡くなりましたが、この事は「寛永重修譜」という本にかかれています。また、景安の行いを、新井白石や湯浅常山 頼山陽等もたたえています。
西念寺にある康景の墓は、古い墓石の型を知る上からも貴重な文化財だといえます。」
↓更にもうイッチョ 「前(サキ)の興国寺城主 天野君の碑 / 廉潔永に映ず」という文も。


↑正直、現在の物差しで康景さんがどれほど立派な方だったのかはよくわからない・・・。のではありますが、興国寺城というと、後北条氏の初代-北条早雲が伊勢新九郎時代に(甥にあたる)今川氏親から与えられた城。 その興国寺城に江戸時代に入った城主が ささいな事でその地位を失い小田原城主に匿われた~ というのはなんだかちょっと... 選択肢間違えてバッドエンドを迎えたサウンドノベルゲームのようで_ 面白く感じました。
しかし、
えーっと西念寺の由緒書きは?
どこかにあったのでしょうか?
見落としたかもわかりません。
申し訳ありませんが Wikiの「西念寺 (南足柄市)」⇒*
_をお読み頂きたく思います。(本堂の写真も載っています)
<おまけ>
西念寺の少し北に 石造物群がありました。

↓「寒念仏供養」

↓右は「庚申供養」、左はー 上にキリーク(阿弥陀様の種字)が見えますから そこからさっするに下二文字は観音菩薩と勢至菩薩の種字でしょうね? その下は(途中読めませんが多分) 南無阿弥陀佛供養。

↓こちらは・・・ 右 馬頭観音かな? 左の文字はちょっと読めませんね・・・。

_ともあれ 今日まで立っていて下さった事に感謝。