扇町三丁目に建つ井細田八幡神社へ行ってみました。
(1月の お地蔵さんの縁日の日にもお参りはしたのですが ゆっくり境内を見る時間はなく、「次は よっく拝見しよう」と思っておりました_)

↑場所は、大雄山線 井細田駅の 東 になります。
↓道路側から見た神社。/社が東向きに建っているので 左が「神殿」右が「拝殿」という並びです。

拝殿の南に 石の鳥居。その左手には朽ちた木から二代目の若木が育っています。右毛には大きな切株。


↑ここに かなり大きな木があった、んですね?(鳥居の建ち位置が少し不自然?もしかして以前は 南向きに社殿が建っていて 鳥居の両脇に対の大木が並んで立っていた~ りはしなかったでしょうか?)
拝殿。

(↑これは1月に撮った写真_。この後も1月と2月の写真が チャンポンになっております お許し下さい。)

八幡様ですから祭神は日本武尊の孫「品陀別命」ですね?
- ご挨拶 -
(LocoWikiによると こちらは天正の頃 村民-星野治郎右衛門によって勘定された神社で 御神体は「僧形八幡」だったそうです。/ しかし明治の神仏分離令により「僧形」は御神体としてふさわしくない、とされ これは長く地域の篤志家によって 守られる事になったとの事。/ しかし 近年になって 古くからの伝統の価値が見直され 今は再びその「僧形八幡」が神社に戻された~ そうです。/ めでたし めでたし。)

↑虹梁の上に 火を吐く龍。
↓正面の扉。桟には八幡様の紋「三つ巴」が嵌っています。

↓拝殿内。/ 神殿への階(キザハシ)前の扉がガラス張りなので 明るいですね?

拝殿南の鳥居を もう一度見ています。

↑鳥居の先に写る摂社は_ 手前から 稲荷社(宇迦之御魂神)、


↓天神社(菅原道真)、神明社(伊弉諾尊)、山神社(大山祇神)、第六天_。

↓鳥居の脇の石には「堅牢地神」と刻まれていました。

手水舎。

その向こうに「天下泰平 ■■繁栄 / 南無妙法蓮華経 / 国土安穏 氏子安全」と刻まれた題目碑。

↑尚、右手の小さな石板にも「南無妙法蓮華経」と刻まれていました。/ 明治時代には仏教の題目碑が境内に置かれていたとは思えないので 近年になって移されたもの かな?
境内北側には舞台。(どんな風に使われるのかな? 祭でお囃子連が入ったり?)

社殿前から東にのびる参道。

その右手に奉納相撲の土俵がありました。


↑井細田八幡の奉納相撲は今も続いているそう。/ タウンニュースでも取り上げられていました。⇒*
(↑2024年9月7日号)
又動画サイトでは 土俵造り や 取組の様子を獲ったビデオも色々見られます。
(井細田八幡の奉納相撲は昔から行われており、二宮金次郎もここの土俵に上がった~ そうです。へー。)
振り返って見た社殿。

↓鳥居越しに。

↓もういっちょ 橋越しに。

因みにこの橋は「八幡橋」。

↓橋の下を流れる川は 久野川の「元の流れ」とか。

↓橋のたもとに説明板がありました。

↓読んでみます。

「井細田八幡神社
小田原市正親町鎮座
御祭神 誉田別命(ホンダワケノミコト)
例祭日 九月十九日を含む直前日曜日 又は振替休日(除?)
由緒 当社創立は(?)天正年間
名主役星野治郎右衛門の勧請(に?)起り爾耒(=以来) 井細田の鎮守として村民の信仰篤く 明治六年足柄県において村社に■定され 大正四年神饌幣帛供進社に指定せられ現在に至る
境内神社
稲荷神社 祭神 宇迦之魂命
山神社 大山祇命
神明社 伊弉諾尊
天神社 菅原道真
(境内社の内、天神社は 八幡様勧請とほぼ同時期に同じ名主さんによって勧請された~ そうです。/ 余談ながら 境内に祠はありますのに、第六天は由緒書きから抜けています。後から境内に祠が移された~ とかでしょうかね? )
当神社の森は昭和五十年 小田原市保存樹林に指定さる
昭和六十年四月 ■■■■」
↓因みに今架かるこの石の「八幡橋」は平成7年竣工~ だそうです。


きっと 昔からこの参道前に「代々」架けられてきた橋なのでしょうね?
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ネット上に『井細田物語』⇒PDF という資料がありました。
これによると 神社の創建は天正十九年(1591)。_秀吉による小田原攻めの翌年です。
旧社殿は大正十二年(1923)の震災で倒壊。再建は昭和に入ってから、のようです。が、落丁なのか再建の年が「昭和年」とのみあって 何年だかはっきりしません・・・。
『井細田物語』読み進むと 川のつけかえ工事の話が載っていました。(久野川と山王川の流れが今一つ理解できてないので この辺りの文は もうちょっと勉強してから 改めて挑戦しようと思います。
が、ともかく_
井細田八幡の社を 西-北-東 と くるりと回っていた川が 社の南を真っすぐ流れるように付け替えられた、んですね?
すると もしかしてー
元々は社には 南から参道が通っていて 社殿も南向きだった~ なんて事はないのでしょうか? もしそうなら 現拝殿南の石の鳥居は 元々の社殿正面 だった可能性があるー?
なんて思ったのですが、調べたら_
↓大正初期。

↓昭和中期。

(↑MAPは「小田原プラットフォーム」から頂きました。/ 鳥居マークは神社の位置ではなく 建屋のカテゴリーを示すアイコンとして 建屋を示す四角のそばに記されているもの と解釈してます。)
大正初期でも社殿の向きは今と同じようにほぼ東向きですね? 参道も「橋」から続いていた事でしょう。又大正時代は道も社の北を回っているので 社の南側に参道があったとは考えにくいですね^^;)しゅー (←膨らんだ妄想がしぼむ音)