石工(イシク)先祖の碑 | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

伊藤家のつぼ で豪勢なお昼を食べた後は_
真鶴町役場のー


ハス向かいへー

「石工(イシク)先祖の碑」を見に行ってみました。(車は真鶴駅横のコインパーキングに置いて歩いております_)

↑「石工先祖の碑」は 町役場の隅の案内板で 一番上に紹介されていました。ここから130m、ですって。
↓MAPで見ると こんな感じ。(下の赤丸が「町役場」、上のが「石工先祖の碑」。130mは直線距離ではなく そこまでの「道」の長さみたいですね?)


↓「石工先祖の碑」、への上り口。


階段の左手に「石工先祖之碑 入口」と刻まれた石。
↓右側に「相洲名石 小松石」とありますから 小松石が使われているのでしょう。


右には二体 赤い帽子に前掛けの お地蔵さんとみえる石像。マップには「大下の道祖神」と表示されます。

これは「僧行形道祖神」という 神奈川県西部や伊豆エリアによく見られる僧侶型の道祖神、だそうです。

道祖神さんの後ろの「石工先祖の碑」、を読んでみます。

「平安末期に石材業を始めた石工元祖としての土屋格衛(←保元平治の乱(1156)を逃れてきた人 との伝承あり) や 江戸城造営の採石に当たって小松山に口開丁場(くちあけちょうば)を開拓した黒田長政配下の7人の石工たちの業績をたたえ、江戸末期(←安政6年(1859))に再建された供養碑がこの山の上にあります。 (参考/文明年間(1469~1487)に格衛を称える石碑を建て祭祀(サイシ)を行ったという記録があります。 が、この碑は元亀天正の乱(1570~1592)で失われたといいます。)
 真鶴町は、こうした人々の開発の努力を受け継いで、いまなお 銘石小松石に大業される全国有数の石材産地としての伝統を誇っております。」

で、小松山の採石場から切り出した石を 海岸まで下した道を「岩専祖畑道(イワ センゾバタ ミチ←岩が地名 専祖畑は小字)」と言い これは 「平成七年の「神奈川の古道50選」にも選ばれた~」 そうなのですが、何の案内もありません・・・。
もしかして これから歩く道も 「岩専祖畑道」の一部なのかな? と思い 期待して来たのですが_ はて。
 
ともかく_ 上がって参りましょう。



坂の途中の早咲きの桜の木に メジロが沢山来ていました。(全然写ってませんが7~8羽はいましたねー)

更に行きます。




↑まだ続くのかな?
↓振り返って見た道。(さすがにこんな曲がりくねった道を 石の運搬には使わない、かー^^;)


もういっちょ あがります。




上り切った、かな?

左手に 小さな広場 のような場所がありました。



斜面の際に 薄い石の板が並んでる・・・。1.2... 7枚?
↓その奥に 「南無阿弥陀仏」と彫った石柱。


で(よくある)「六字名号塔かなー」と素通りしかけたのですが・・・

側面に「石工先祖碑」と彫られているのに気づきました。 これが安政6年(1859)に再建されたという「石工先祖の碑」だったんだ、これを見に来たのです!

すると 石碑の横に並ぶ七枚の石は 黒田配下の七人の石工を供養するために建てられたもの、ね?

↑そう思って見ると 一枚一枚の石の前には 一対の花たてが。
↓字も彫られています。

(↑八月十四日 しかわかりませんけど_)

しかし 周囲には説明板の類・・・ ないなあ。
・江戸時代に新小松石を切り出すために福岡藩によって開かれたという口開丁場の場所 知りたかったなあ。もしかしてすでに特定は難しくなっている、のかな?(小松山には沢山の採石場があり、石を取った後は埋め戻して植林する~ と 真鶴町-神奈川県石材協同組合のHP にありますし_)
・岩専祖畑道 を歩いてみたかったのだけど ルートマップとかないのかしら_


<*>ネットで見つけた資料_
PDF『真鶴 令和2年度改訂版 中学校副読本』(郷土史のテキストのようです)
https://www.town.manazuru.kanagawa.jp/material/files/group/36/soc_dig_p05.pdf
(↑特にp.14の (6)石材業からを 読ませてもらいました。
時に_ p.17に「口開丁場」の写真があるのですが どこだろう? 地元の中学生には「説明不要」の事なのかな?)



ともあれ そんなこんなで 真鶴、まだまだ分からない事が一杯。
改めて歩いてみたいと思います。