大分間が空いてしまいましたが_
弘前で花見をした続き~ を綴って参りましょう。
不老不死温泉を目指して雪の残る山道を走り~
海に出たところから_
ここは「千畳敷海岸」。
寛政4年(1792)の地震で隆起したという「海岸段丘面」で、津軽藩の殿様がここに千畳畳を敷かせ(←本当???)宴会を開いたのでこの名がついたそうです。(尚 江戸時代には殿様専用の避暑地で 庶民は近づけなかったんですって。)
不思議な地形。夕日が沈む頃は「異世界感 ましまし」になりそうですね。
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少し走り 深浦港(←北前船の風待ち港)のそばの円覚寺(エンガクジ)へ行ってみました。
(↑港の脇のポケットパーク_
↓のすぐ横に建つお寺。)
↓説明板。
「円覚寺(真言宗醍醐派)
本寺は大同2年(807)に坂上田村麻呂が聖徳太子作十一面観音像を安置し、創建したと伝えられる。貞観(ジョウガン)10年(868)に円覚法印により再興され、その後、豪族や弘前歴代藩主の篤い庇護を受けていたことが文献等に記されている。
会場公益が盛んになると海上の安全を祈願する船乗りが数多く参詣し、船絵馬や髷額(マゲガク)を奉納して澗口(マクチ/マノクチ=港の入口)観音として信仰を集めた。これらは室町時代初期の作と言われる薬師堂内厨子とともに国の文化財に指定されている。」
(↓楼門裏にあった別の説明板)
(↑抜粋_
「深浦」は、上方(京大阪)と蝦夷地(北海道)を結ぶ経済文化の大動脈『北前航路』の蝦夷地へ渡る最重要港でした。」
「明治五年(1872)新政府による「修験道禁止令」の法難の嵐によって、全国の多くの修験寺院は消えていきましたが、当寺は生き残り、真言宗醍醐寺派末寺の「祈祷寺(キトウデラ)」として現在に至っております。」)
その横に「菅江真澄の道」と記した柱_。
↑「春光山圓覚寺(「深浦の観音様」「澗口の観音」) 寛政八年(1796)七月十六日、椿山見物に出立する真澄は、飛騨の工(タクミ)等が建て」たお堂を拝観する(「外ヶ浜奇勝」)。これが現在国重文指定「薬師堂内厨子」。 」ですって。
ではお訪ねしましょう。
門の上に 強面 のシャチホコ。
↑楼門上の扁額。下は山号「春光山」、上は「観世音」ですかね? (因みにこちら_津軽三十三観音霊場第10番札所で 更に 弘法大師二十三ヶ所霊場第12番札所、だそうです。)
↓わー 楼門の 二階 部分、吹き抜けで 壁に梵語がびっしり書かれてます!(こういうスタイル初めて見ました。)
(↑般若心経かしら_↓天井には龍。)
↓門を守る二体の金剛力士。
門を抜けたところ_。
↑扁額に梵字。何て書いてあるのでしょう?(後でわかりましたが 本尊 十一面観音の御真言でした。)
石段の先に本堂が見えました。
_とその手前にあるのは・・・?
↑↓「龍燈杉九字之綱」ですって。
↑「千古の風雨霜雪に耐え、偉大なるパワーを秘めている御霊木です。
紅白の綱を額に当て、願いをこめて『九字』を唱え、千古の偉大なるパワーを頂いて下さい。
◎九字◎
臨(リン)兵(ビョウ)闘(トウ)者(シャ)皆(カイ)陳(チン/ジン)裂(列-レツ)在(ザイ)前(ゼン)」
↓この杉の木自体も「町指定天然記念物」なんですね。
↑「江戸時代、西廻り航路(北前船)の海の男たちが、この沖で暴風雨に見も吾、髷(ちょんまげ)を切って一心に祈ると、この杉の梢から一条の光が放たれたそうです。
九死に一生を得てたどり着いた船乗り達は、常日頃篤く信じていた澗口観音円覚寺にその髷を納めました。(重要有形民俗文化財 髷額)
このような伝説が、いつごろからか、北前船の船乗り達に「竜灯杉」(竜神が宿って船乗りに助けを与える神木)といわれるようになりました。」
では本堂へ。
↑お堂の回りには「南無重一面観世音菩薩」と染め抜かれた旗。
↑屋根の棟瓦にも梵字!
↓鳥衾の下に十文字に並べた三鈷。寺紋でしょうか?
↓唐破風には火伏の「波」。
鐘。
扁額には「観音堂」。
(↑くす玉みたいなのは 電灯でしょうか?)
柱に本尊仏「十一面観世音」の御真言が書かれていました。/ 楼門裏の扁額の梵字(最初の聖音「おん(オーム)」が省かれた5文字)はこれですね? / その上には御詠歌。
本堂内でご挨拶させて頂きました。(合掌)
(↑「施無畏」の隣には高砂の絵。お寺で見るのはちょっと珍しく思いました。)
↓「本堂について」
本堂の横には 稲荷堂・護摩堂。
(↑ただ 旗は「金毘羅大権現」 と 「弁財天」になっていました。/配置 変わったのかもしれませんね?)
(↓参考にした境内図。)
一段下りて_
北側にはお地蔵さん。
↑その奥に 庚申さん。
_こんなのが 北浦の円覚寺でした。