湯河原 福泉寺(首大仏) | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

(つづき)
万葉公園近くにあった案内板で_

首大仏で知られる福泉寺(フクセンジ)が (割と)すぐそこと知った私達は~

万葉公園(ちょっとだけ)散策の後、泉の福泉寺(曹洞宗)へ行ってみる事にしました。(おことわり/万葉公園より川下の千歳川右岸は「静岡県熱海市泉」になるのですが、 エリア的に「湯河原」なので このブログではカテゴリーを「神奈川県足柄下郡湯河原町」にしております。)

(↑まずは 車をお寺の専用駐車場へ置かせて頂いて~)
↓駐車場から 少し川上へ歩きます。

山側へ上がる坂がありました。



石垣の上に茅葺の屋根が見える。あそこがお寺かな?


(↑読めませんー 火伏の意味が込められているとすると「水」だと思うのですがー・・・)

坂を上がって近づいてみるとー

正面が本堂で、
さっき「お寺かな」と思ったのは その隣の(川側に建つ)庫裏だったとわかりました。


本堂は茅葺なのに 窓枠の色使いのせいでしょうか、


どこか中国風に感じられました。


↑虹梁の上には龍が~・・・アラ何匹でしょう?
↓扉の上には山号「青谷山」が記されています。


山側に目を移すとー

江戸時代初期に二代目尾張藩主徳川光友公が「亡き母を弔うために造った」と伝わる 陶製の大仏(釈迦牟尼)の頭部が現れました。

仁王様に守られています。

日本の仏像には珍しい 見開かれた目。

エキゾチックな面立ち。

元々は全身像(多分座像)だったといいますが、現存するのはこの肩から上の部分のみ、だそう。

制作には 明代末の混乱期の中国から日本へ来、名古屋の尾張藩に仕えた中国人-陳元贇(チンゲンヒン ゲンイン ゲンピン)が関わっているのでは という説もあるとの事ですが、、、 どうでしょう。(陳元贇の作品としてこの首大仏を紹介する頁もあります。)

真偽のほどはわかりませんが_ 造形的に四川省の楽山大仏に少し似ているような~ 又 見開かれた目はどこか雲崗石窟の仏像を思わせます。中国系の方が関わっている としたら 納得いく面、ありますね。

(上でリンクを張った湯河原観光協会の頁によると_)この「首大仏」は 元は名古屋城内にあった~といいます。それが湯河原にもたらされたのは戦後の事とか。 どんな経緯でここに? という話、知りたく思いましたが 境内には説明板の類は見当たりませんでした。

正直にいうと 横から後ろにかけてはバランスが少し悪く洗練感(なんて言うべきか) に欠けるのですが 「味わい」はありますね?

ネットで調べるうち、
二代目藩主-光友が生母-歓喜院(乾の方/お尉(オジョウ)生年不明~1634_享年推定二十代後半)の菩提を弔うために建てた守山区の大森寺(ダイシンジ/浄土宗総本山知恩院直末寺)で そこに陳元贇が作った陶製の仏像があるらしい~ という話を拾いました。/ 又 小林 宗一という方が著した『陳元贇陶製仏像』という本が存在する事もわかったのですが 画像としては「陳元贇さんが作った陶製の仏像」という物は、検索しても 見つける事はできませんでした・・・。(せめて「首大仏」と比べて見てみたかったのですけど_)

が、別の話を見つけました。
光友の生母という人は身分が低い女性だったようで 「若様を 自ら腹を切って出産した~」 などという壮絶な「物語」もあるようです(湯河原観光協会のサイトもこの話を載せています)。
が この本によれば、⇒”PDF「『山下家覚書』から読み解く徳川光友生誕背景」”

↑実際は城の外(於 初代藩主-義直の乳母の息子の屋敷_現・名古屋市中央区至誠院あたり)で無事に出産したようです。又 出産後 二歳になった子供(後の光友)が名古屋城へひきとられると、母(お尉)は江戸屋敷(←初代藩主生母 お亀の方の館)に部屋を与えられており 亡くなったのは若様が9歳の時。

光友は(寛永七年)5歳の時に江戸へ行ったといいますから もしかしたら江戸で「母子の再会」のチャンス、あったかもしれませんね? (PDFに載る話によると お尉とその子には 「一緒に処分」されるかもしれない時期があったといいますから 生きて母の名乗りができたとしたら お尉は「若様の事 命がけでお産み申し上げましたよ」と言ったかも。そしてそれに尾ひれがついた~ のが「自ら腹を切って~」という「物語」かも。)


福泉寺拝観を続けます。

首大仏の裏手には「卍」「南無阿弥陀仏」と刻まれた石塔がありました。(曹洞宗のお寺で南無阿弥陀仏は珍しいような・・・。こちらは天文元年(1532)に曹洞宗となった、といいます、 この塔はそれ以前に建てられたものでしょうか? それとも陶製の仏像と縁あるとされる尾張徳川家が浄土宗であることに由来?)

その隣には_

↑瞑想する仏陀の三尊スタイルのレリーフ。~と思ったのですが_↓

↑お釈迦様の頭上で 飛天に囲まれ呵々大笑する布袋様! どういう状況でしょう???
↓更に奥、へ。

↓墓地に続く石段_。その途中に古色を纏った石仏達が並んでいました。





石段側から見た本堂。

屋根の上に「水」の文字。




本堂の庫裏側に 大きな蝦蟇がいました。リアルなのにどこかひょうげていて 面白く思いました。

帰りは 庫裏の脇から 石段を下りました。





↑寺号が記された石。/ここが本来の入口、ですね。

ありがとうございました。


<おまけ>
マンホールの蓋。


↑上でも打ちましたが、福泉寺の建つあたりは「静岡県熱海市泉」。マンホールも神奈川県足柄下郡湯河原町の「ゆ」が記されたものではなく 波で描いた梅の中に温泉マーク、です。/ 同じ温泉エリアで 川を挟んで違う県~ って 珍しいですよね?