
え?・・・

あ、すみません 目が悪いもので・・・(ハロウィンの名残の蝙蝠かと思ったら ヤタガラスでした~^^;)


え? 又驚く。

でっかいキョロちゃんかと思ったら これもヤタガラス。(三本足です)/ 右は金色だからナガスネヒコの目をくらませた「金の鳶(トビ)」かな?
説明板。

↑「川越熊野神社御社紋 「八咫烏(ヤタガラス)」由緒
八咫烏とはクマノの大神のお仕えです。烏は夜明けを呼ぶ鳥、太陽を招く鳥といわれ、人生の闇に悩む人々を明るい希望の世界に導く霊鳥として広く信仰されています。
日本を統一した神武天皇が熊野の山中で道に迷われた時、大和の橿原まで先導したという故事に習い、導きの神として篤い信仰があります。
八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味です。八咫烏は太陽の化身で三本の足があります。この三本の足はそれぞれ天・地・人を表わすと言われています。つまり太陽の下に神様と自然と人が血を分けた兄弟であると云うことを二千年前に示されていたのです。サッカー協会のマークに八咫烏が使われているのは神武天皇の故事に習い、よくボールをゴールに導くようにとの願いが込められていると考えられます。(熊野本宮大社八咫烏説明文より)
川越熊野神社では熊野本宮大社より許可を頂き、中央に掲げる紋を当社の御社紋とさせていただいております。」
八咫烏は 紋 として絵馬や提灯に意匠として~ というだけでなく、キャラクター になってる感がありますねー。/ 上に貼った大きな眷属像だけでなくー


↑お御籤も八咫烏でしたしー
↓社殿の横にもー



↑アピりオーラを放ちながら「チン!」と座って(立ってる、かな?)いました。
改めて、川越熊野神社_。


由緒書によるとー

「通称- 「おくまんさま」
当社は海運・縁結び・厄除けの神として、信仰されています。
御祭神- 御祭神は熊野大神で伊弉諾命(イザナギノミコト)、伊弉冉命(イザナミノミコト)、速玉之男命(ハヤタマノオノミコト)、事解之男命(コトサカノオノミコト)の御四神です。伊弉諾命、伊弉冉命は、一番最初に出てくる夫婦の神様です。このお二柱の神様は夫婦の道を興しになられた(縁結び)だけでなく、多くの国や神羅万象の神様をお産みになられました(開運)。そのようなことで『開運』『縁結び』の神様としてのご信仰があるわけです。 特に、当社の主祭神である伊弉諾命は、天照大神、須佐之男命などの御親神様でもあり、御神徳の高い神として人々に敬われています。また、禊(ミソギ)をとても大切にしている神道ですが、その起源は古事記によると伊弉諾命の禊にあるとされています。それから速玉之男命と事解之男命は、伊弉諾命が黄泉の国から去る際に現れた神と言われています。当社では、どちらの神様も穢れを祓う神様なので、『厄祓い』『厄除け』の神様としてお祀りしております。
(御社紋については 上で記したので省きます)
御由緒- 当社は『明細帳』によると天正十八年(1590)蓮馨寺二世然誉文応(ネンヨブンオウ)僧正が紀州熊野より勧請したことに始まり、以後、松郷の人々が氏神として崇敬した。下って正徳三年(1713)同寺十六世然誉了鑑僧正の時、社殿を改築し鳥居を石造りとした。現在ある二の鳥居がそれであります。」 だそうです。
社殿裏に「むすひ(結び)の庭」というスポットが造られていました。

↓指南の看板。


(↑「カップル編」は、古事記の国生みの段ですね・・・。男性が「あなにやし えをとめを」と言い、女性が「あなにやし えをとこを」と返す。古事記ではこの 順番が大切、って事でしたが 看板でも「必ず男性の方から声をかけましょう」となっていました。)
↓そーっと覗くと(?)

↑こんなお庭でしたよ。
境内には他にも 色んな社やお堂がありましたー

こちらはー
↓大鷲(オオトリ)神社。




↑「大鷲神社御由緒
通称- 十二月三日の酉の市は「おとりさま」と呼ばれ、戦時中は武運長久の神として、現在は家内安全 商売繁盛の守護神として信仰されている。
御祭神- 天之鳥船命(アメノトリフネノミコト)
御由緒- 大正十一年南埼玉郡の鷲宮神社の分霊を奉斎したと伝えられている。初め熊野神社に合祀されたが、後に流れ造り社殿を建立し遷座祭を執行して末社とした。 川越地区とその付近住民の繁栄を願い、毎年十二月三日に酉の市を開催し、大神の福と呼ばれる「稲穂付きの熊手」や「百万両小判」を授かろうと近郷近在より善男善女が集まり年毎に益々盛大になっている。」
(『日本書紀』には大己貴神(≒大国主)の海の遊具とも書かれる天鳥船が 御祭神なんですねー、おもしろいです。)
その隣は秋葉社でした。

祠の中には 狐に乗る烏天狗。(ナルトとサスケみたいー)


↑由緒書
「秋葉(アキハ)神社御由緒
通称- 「あきはさま」火防・火伏せの神 料理人・消防士・防火責任者 職人・主婦など火を使う方の崇敬があつい。
御祭神 火之加具土命(ヒノカグツチノミコト)
御由緒 新編武蔵風土記(江戸時代文化文政年間)によれば 第十代川越藩主秋元喬房(タカフサ)氏により、享保八年(西暦1723)に建立。秋元氏が蓮馨寺住僧東譽圓悦なる者に譲り、当社安置の地を熊野神社に卜(ボク)して丘を築き、勧請させた。昭和三二年まではその小丘が残っていた。明治六年に遷座した秋葉山秋葉寺の御本尊様の護神三尺坊はカラス天狗姿で白狐に乗るとされる。」 ふーむ すると祠の中のお像は「白狐に乗る三尺坊」さんですかな?
(時に 三尺坊さんの三尺は身長(1m位)、でしょうか?)
又その隣はー

弁天さん(神道の方の呼称では「厳島神社」)でした。

↓由緒書。

↑「厳島神社御由緒
通称- 「べんてんさま」「銭洗い弁天」 芸能、福智、延寿、除災、得勝財運の神。平成二十八年六月新たに安芸の宮島より弁財天像をお祀りする。
御祭神- 市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)
御由緒- 「武蔵三芳野名勝図絵」(享和元年1801年)によれば、その昔は蓮馨寺の南側林中にあったが、当時、秋葉神社の西側に移したと記されている。よって御由緒は不詳で(あ)るが、口碑によれば蓮馨寺開祖以前より寶池(熊野神社裏より蓮馨寺境内にかけてありと (し?))に鎮座していた当社を崇敬し、池名「寶池」を取って寺号となし寶池院としたと言う。明治二年蓮馨寺境内より遷座して、熊野神社の御末社となった。」
(なるほど、元はお寺の境内にあった「弁財天」であったのに、明治の神仏分離令以降 神社境内の厳島神社の市杵島姫命 となられたんですね。(よく聞く話ですけど))
さて、インド出身の弁天さんは蛇と関わり深い方ですが(蛇は お使い と言われたり 化身と言われたり)、 市杵島姫命はそうじゃない ・・・ という事でしょうか、お祀り処にはちょっと 区別 がありました。
↓左が「厳島神社」で 右が「撫で蛇様」の祠、とかで_。


↓「撫で蛇様」の説明板。


(↑祠の前には小さな小さな蛇さんが みー っしり)
↓厳島神社の横にはコインの洗い場がありました。

ざるも置かれていました。

↑ざるの横の説明板にはー
「銭洗弁財天 参詣の仕方
先ず 左の社「厳島神社」(弁財天)にお詣りしてから、ザルに金銭を入れ、竹のスノコの上に載せ柄杓で御神水をすくいかけるか そのままザルを宝池に入れるかして洗い清めて下さい。(そうか。この池は蓮馨寺との間にかつてあったという「寶池(タカライケ)」を準るものなんですね?)
洗い清めた金銭は、大事に有効にお使い下さい。
ご幸運を祈っております。」
と書かれています。

せ 折角ですので(?)

_ありがとうございました。
↓さてその隣には・・・「運試し輪投げ」なるものが。/ まるで 温泉場の射的場のような雰囲気ですがー これは「お稲荷さん」に付属している施設、なのでした。

(↑的は左から「心願成就運」「金運」「健康運」「仕事学業運」「恋愛運」。/ 右手前の説明板には 「運試し輪投げ まず右側の加祐稲荷様にお参り(10円以上)します。 次に輪を三つだけ持ち、試したい運気の前に立ちます。 気持ちを込めて三つ投げます。一つでも入れば運気は良好です。」と書かれています。)
↓こちらが「加祐(カユウ)稲荷神社」。


↑説明板。
「加祐稲荷神社御由緒
通称- 「かすけさま」「おいなりさま」 生命の元になる食物(稲)の実りを守り、人々の願いの実りを助けてくださる福の神。
御祭神- 倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)
御由緒- 新編武蔵風土記稿及び武蔵三芳野名勝図絵に当社の名は記されているが、御由緒は不詳。口碑によれば蓮馨寺開祖以前からあり、この神を帰信したところ、種々の災厄から免れたことから神が祐を加えて下さるということで加祐という名前を社号に関し崇め来た。その社号が古旗に書かれているのが残っていたと言われる。そのことから室町時代永禄年間(1558年~1570年)には既に当社は存在していたと推考できる。 明治二年蓮馨寺境内より遷座して熊野神社の御末社となった。」 へぇー。
↓東向きに建つ熊野神社。

拝殿前の参道を 東へ向かいながら 振り向き 振り向き 社を撮っています。


(↑本来こちらからお参りすべき神社、なんですねー。)
いやいやー・・・
濃いスポットでしたー!
この後は メインロードに戻ってー

一筋入った先の 古い蔵を改造したショップ兼カフェ-une brise で休憩してー

(こちらは 古い蔵を守るように外側にガラス部分の多い 覆い屋 を造られてる、んですねー。)

(面白く そして和む空間でした。)

予約を入れていた鰻のお店に向かったのでしたー。
つづく