
去年 役目を「三の丸ホール」に譲り、引退した建物で_

取り壊しが決まっていますが、とりあえず今は「立ち入り禁止」になったまま どこかポップな昭和の雰囲気を纏って 立って います。

時に市民館前のこの小さな建屋は何でしょうね?

(↑入口上にランプの跡、文字が貼られていた跡_。字数的に「小田原警察署 本町交番」位? ひさし部分に旭日章が貼られていたっぽい跡も見えるしー・・・)
市民会館の前に パネルがあります。

(↓左の「江戸時代の小田原」)

(↑元サイズ画像)
「関東一円を支配した戦国大名北条氏は、天正18年(1590)、天下統一を目指す豊臣秀吉との小田原合戦に敗れ、戦国期最大規模の城郭として発展した小田原城も徳川家康の支配下に置かれました。
江戸時代に入ると、有力な譜代大名である大久保氏、阿部氏、稲葉氏によって、江戸を守る西の要として小田原城は改修され、石垣と天守を中心とした近世的な城郭に姿を変えました。この付近には、現在の道路に沿って三の丸東堀が作られました。(写真右)この堀にかかる土橋を渡り大手門を抜けると小田原城三の丸で、家老職など半の重臣の屋敷や藩校集成館などがありました。
<補足>
江戸時代初期の小田原城大手門は南を向く「箱根口」でした。が稲葉氏の時代に東(江戸方向)を向く現在の位置に移されています。
大手門は、小田原城でもっとも大きな門の一つで、小田原藩の藩氏以外の通行には、氏名の確認が必要とされていました。
大手門から三の丸に入り、現在も残る二の丸東堀を渡り、馬出門(ウマダシモン)、さらに銅門(アカガネモン)(写真上)を通ると、二の丸の中心である二の丸御屋形に至ります。この道順が正式な登城路とされていました。
なお、ここから約500m東にある国道1号線の新宿(シンシュク)交差点までの区間は将軍専用の「御成道(オナリミチ)」とされ、藩主もこの道を通ることを遠慮したと言われています。」
_という訳で 今立つのは 大手門を望む三の丸東堀の東の縁、なんですね? (つまり市民会館はお堀の 中 に建っているー)
ではかつての お堀の上 を進みましょう。(少し上り坂 になっています)

今この家裁(横浜家庭裁判所小田原支部)が建つ辺りに 大手門の桝形があったようです。(規模は今堀内に復元されている銅門(アカガネモン)クラスだったといいます)

往時を偲ぶ物は何も残っていない~ ようで、どっこい残っているのが 家裁の向かいの(そして中華の日清亭の隣の) この鐘の載る台です。


↓説明板。

「この鐘楼は、江戸時代に小田原城大手門の櫓台(ヤグラダイ)北側石垣があった場所 にあります。
東側の城下(国道1号側)より一段高くなっており、この門より西側は小田原城三の丸で、藩の重臣屋敷が建ち並んでいました。
大手門には、翌年に三代将軍徳川家光の上洛を控えた寛永(カンエイ)10年(1632)の改修工事により石垣が造られました。また、寛永20年(1642)に幕府の許可を経て、正保(ショウホウ)年間(1644~1648)に渡櫓門が建設され、延宝(エンポウ)年間(1673~1681)には全面に冠木門(カブキモン)が普請されました。渡櫓門と冠木門からなる大手門の規模は、銅門(アカガネモン)とほぼ同じです。
「寛永年間小田原城廓(クルワ)総図(通称「宮内庁図」)によると、渡櫓門の前には枡形勢溜(マスガタセダマリ)が設けられ、さらに冠木門の外には長方形の馬出(ウマダシ)を設けて防衛力を強化しています。城外とは幅9間(ケン)半~11間(約17~20m)の三の丸堀で隔たられており、堀には「大手口橋台」とも呼ばれた土橋が設けられていました。
なお、大手門櫓台石垣上に鐘楼が設けられたのは大正時代のことです。」 _ だそうです。

(↑元サイズ画像)
鐘楼については 又別の説明板に詳しく書かれていました。


「この鐘は現在、朝夕6時につかれ、時を知らせている。
時を知らせ津「時の鐘」は長い間、昼夜の隔てなくつかれていた。江戸時代の貞享(ジョウキョウ)3年(1686)の「貞享3年御引渡記録」の中に「小田原町の時の鐘は昼夜ついている。鐘つきの給金は一年金六両で、この内金三両は町方から、三両は町奉行所から遣わしている」という記事があり、300年以上前からつかれていることになる。
この鐘は初め浜手御門(ここより約150m南/ 松原神社の西側)のところにあったのを、明治29年(1896)裁判所の東北隅に移され、さらに大正年間に現在の場所に移された。
昭和17年(1942)には、太平洋戦争の激化により、軍需資材が欠乏したため、政府は金属類の供出命令を出し、金は応召される (「時鐘応召」と呼ばれた)。
その後、寺宝は鐘に代わってサイレンやチャイムになったが、城下町に似つかわしくないという事で、昭和28年(1953)小田原寺院団によって新しい鐘が造られた。」
_だそうです。
上がってみましょう。

あれ?「立ち入り禁止」になってます。

確か以前は こんなロープは張られてなかったように思うのですがー・・・。


↓鐘には「平和鐘序並銘(ヘイワノカネ ジョナラビニメイかな?)」が記されていました。

鐘楼から見た 南の家裁。

小さな遺構ですが ともかくこの石垣によって「かつてここに大手門があった」事が示されている、んですね?
鐘楼脇の路地の先は_
今はブリキの塀で塞がれています。

↑が、以前はあの 車止めの向こうへも 通り抜けができました。(市民会館や 会館1Fに入っていた市役所の出張所への近道 だったんです。)
↓まるで「袋小路」のようになってしまっているこの道の奥にはー

↑「第二十一区 自治会事務所」があります。地区の貸会議室としても利用できる場所で 以前住んでいた頃「アパートの総会」でお借りしたりしていました。(懐かしいなー)
鐘楼の南の通りを西へ進むと、 石貼りのビルがあります。


↑現在「貸売」の紙が貼られていますがー 何のビルだったんでしょう?
↓見上げると刀を構える忍者(小田原だから風魔?)の姿が!

↑気になる~~~。
↓道なりに行くと お堀端通り に出ます。


勢いで お堀端通りを南へ下って 三の丸ホールへ行ってみましょう。

(↑広場をはさんで 左が観光交流センター、右が三の丸ホール です。)
おお、前回より↓
_アヒル 増えてますねー。





↑真ん中にいるの ポケモンの「ドードリオ」に見えるの 私だけ?

賑やかさ「ましまし」!

アヒル達には是非 夏休み期間、沢山の人を元気にしてほしいですね^^)
<おまけ>
観光交流センター近くにこんな花がー。

↑ヘクソカズラ(屁糞葛)です。/ 葉をつぶすと悪臭を放つのでこの名がある、 と学校で習いました。可愛い花なのに残念な名前で かえって記憶に残っております^^;)/ 今ネットで調べたら「早乙女花」という別名もあるとのこと。こっちで覚えてあげたいなあー。