龕附天正金鉱(ガンツキテンショウキンコウ) | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

土肥金山でお昼を食べた後は、そこより少し南に引き返した場所にあるー

龕附天正金鉱」という天正5年(1577年)に開かれたという手掘りの金鉱跡へ行ってみました。
↓見学料(大人一人800円)を納めると、受付建屋にいらした男性が、 「案内しましょう」 とおっしゃり 杖をつきながら・・・

表に「案内中」の札を出して 戸締りをし始めました・・・。

(80過ぎかと思われる方 しかも足もお悪そう。私達は大変恐縮しながら、、、 後をついていく事に)))

↓頂いたリーフレット。



さて、受付建屋そばの山の際に こんな看板が出ていたのでー

てっきりここから坑内に入っていくのだと思ったのですが、 これは 無料の採掘体験コーナー との事でした。。。

で 私達が向かったのは 反対側の

こんな遺構、でした。

古い金の精錬所跡 だといいます。

(↑向こう側が焚口。手前が釜の奥、になります。)
この遺構は昭和40年代に発掘によって出てきたそうですが、面白い事に 地名は元々(発掘以前より)「釜屋敷」だったといいます。(形ある物は長い歳月の内に埋もれても 地名は残ったんですね?)

↓遺構手前に「鍰(カン)」なる物が・・・。

これは「金を精錬した時に出たカス」だそう。(つまり 間違いなくここは金の精錬所だった、という事ですね?)


因みに 精錬された 地金 は 近くの浜から 船で駿府・江戸の金座へ運ばれた~ のだそう。(+土肥には 金座と関わり深い後藤家(=世襲の御金改役)からきている「後藤町」という地名もあったらしい。)

山へ上がっていきます。

道脇には 模型形の金鉱での仕事の説明板が並んでいました。

(↓「鉱荒挽の場」/粉砕しているんですね?)

(↓「微粉磨挽の場」/更に細かく)

(↓「ネコ流し 椀かけの場」)

(↓「水銀アマルガム作成の場」)

(↓「鋳金炉すくい上げの場」)

(↓「千石船にて江戸に輸送の場」)

(↓江戸金座 延金荒切りの場)

(↓「後藤役所の図」)


「陳列館」という建屋がありました。

中には 鉱物標本 小判のレプリカ、などなどーが。

(↑そして ここは「土教文 第一号」とのことでした。)

ガイドさんの 金の鉱脈を探す際の目安が石英~ なんて話に なんとかついていけたのは ツバメ号シリーズの『ツバメ号の伝書バト』(←児童書!)を読んでいたから。/ ありがとう、ツバメ号。

再び、外、へ。

昔の金山での労働について 図を示しながらの説明を受けます。


では鉱山内部へ。

ここが間歩(マブ)入口。/名称は「柿木(カキノキ)間歩」だそう。(昔ここに柿の大木があった~らしい)

中は真っ暗・・・、ですが ガイドさんが近くにあった電気のスイッチを入れると 中にライトが点きました。

狭い・・・。

_ と思ったのですが、 意外にも中に入ると坑道が綺麗に削られている、事に気づかされます。

手火松(タイマツ)の煙の跡 なども残っている。

↓逆さ階段(クフ王のピラミッドの大廻廊の天井のようー)/ ガイドさんによると 空気の対流を考えてのもの との事。

天井に換気坑が見えました。

(松明の明かりが頼りの作業場では 煙を外に逃がす道を付けるのはとても重要な事だったんですね?)

奥、が見えてきた。

これが「龕」(ガン/ 神仏を祀るために岩に穿たれた窪み)。

彫られているのは山の神(女神)のシンボル。/送風の技術の無かった時代には三十三間より先には(空気が希薄になるので) 掘り進んではならにとされており、山の神を祀って休山した、 のですって。

この龕を持つがゆえに この金鉱跡は考古学の権威・軽部慈恩教授により「龕附天正金鉱」と命名された、のだそうです。

出口 / 保安排水坑。

これは近年この山の権利を買った会社が ダイナマイトで開けた穴、だそう。

でも「出口」として使われる事になっただけのようです。(採算がとれる程の金脈は見つからなかった、という事でしょうか?)


ぽん、と山の外に出ました。

受付建屋の方へ向かいます。

あー 面白かった。/ 地底めぐり(?)に歴史・地学の勉強、、、 経験値 いっきに「3」位GETできたように思います^^)



さてでは 宿へ。(いよいよ(?)蟹を頂きますよ^^)/ つづく