旧崇広(スウコウ)堂 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

伊賀の旅、二日目は旧藩校「崇広堂(スウコウドウ)」の見学から始めました。

↓蔦は藤堂家の家紋。

↑因みにこちらは藩主のための御成門。 (現在は南の通りに面してついてますが 元は東の塀側にあったといいます。)
↓こちらは通用門。(生徒もここを使ったそうです。)ベンガラで塗られており 通称「赤門」。


(↑前日夕方、宿へ向かう途中に撮った絵なので 閉まってます。)
(↓翌朝。開館してます。)伺いましょう。



↓説明板。

(1821年に藩主:藤堂高兌(タカサワ)が 津の藩校の支校として建てたもの。創建当初は講堂を中心とする「文」の学び舎だったが後に西側に武道場が設けられ、学生は 剣術・槍術・柔術・馬術~ など「武」も学べるようになった、そうです。/ 尚 明治以降は小学校や図書館として使用されてきた、のですって。)

チケットを求めると_


(↑現在は東の「文」の学び舎とその補助施設が保存+復元されています。西の「武」の訓練場跡は現在は伊賀市立崇広中学校の敷地になっています。)

_チケットブースの 門をはさんで向かいの建屋(というか長屋門)で紹介ムービーを観るよう勧められました。

とても丁寧に作られたムービーで、内容もとても興味深かった。

では 中心的建屋の方へ。

ここは大玄関。

下駄箱って江戸時代からこんな感じだったのかしら? さすがにこれは明治以降のスタイル?


(玄関棟、ここは創建当初からの建屋、なんですね?)

玄関の奥は_

明かり採りの中庭でした。


玄関の裏をまわり西へ進むとー

台所がありました。

土間にはおくどさん、が並んでいます。(講師や寮生の為の施設だったのかしら?)

天井は高く 屋根には煙出しがついています。

土間の北側にはお風呂もありました。

建屋の西へ出てみました。

↑手前の角がお風呂、です。
↓建屋北の窪んだ箇所は、お風呂の焚口でした。

(↑上の小窓から湯船の人と「湯加減はどうです?」なんてやり取りをしてたんですかね?)

台所の北には書物蔵。



母屋に戻ります。




(↑中庭、まで戻ってきました)
中庭の北の棟は「北控所」。

六室の内一室は藩主の為の間。他の部屋は講師たちの休憩室として使われたそうです。
↓地袋の上の額の文字は「撫孤松而盤桓(バンカン=ぶらぶら ぐずぐず 留まる) / 孤松を撫でて盤桓す」。

陶淵明の帰去来辞(キキョライノジ)の一節。「(夕暮れの園の)一本松を撫で 立ちどまる(屋内に入るのがおしくて、かな?)」。(正しい訳は下に)  思いのほかにのどかな歌が書かれていて面白い_んですが場所にマッチしてませんね?元々ここにあった額でしょうか?

↑拙堂(斎藤拙堂)という人は津幡江戸藩邸で生まれた幕末の朱子学者。Wikiによると「安政二年_ 幕府は拙堂を儒官に抜擢しようとしたが、主君の元を去り難しと拙堂はこれを辞退_」という事があったそうで、帰去来辞も これを踏まえて考えると納得いく歌ですねー。
追記!>
すみません、亭主が斎藤拙堂の書についての説明書きを撮ってくれていました↓

拙堂は津幡の藩校:有造館の先生で 藩主・藤堂高猷(タカユキ/高兌の息子)にも学問を教授していた方、なんですね。
上の詩の訳は「庭に立っている松を撫でながら、さりがたい気持ちになる」。又この書は「平成25年度に個人から寄贈を受けたもの」だそうです。


講堂へ向かいます。

講堂内部。/ここが学校の中心、ですね?(儒教などの講義が行われたのでしょう。)


障子の向こうに見えるのは秋の庭。

(↓東の塀)

(↓東南の角には「小学校」に相当する「有恒寮」が建って_ いました。/現在建っているのは「思斉舎」という別の建屋、だそうなー)

(↓小玄関内から御成門の方を見たところ)

↓外から見た小玄関。


↓南の庭から見た講堂。

↓学生達は三個所ある階段から堂内に入って講義を受けたといいます。

尚、この扁額の文字は 米沢藩主:上杉治憲(=鷹山)が絹に書いた物から起したそうです。(鷹山は「成せばなる ~」で有名なお殿様。揮毫については藤堂高兌が鷹山に 是非にと願った~ と伝わっています。)

庭を歩きー

有恒寮の方へ行ってみましょう。

(上でも書きましたが 今ここにあるのは思斉舎という 東塀側にあった二間続きの建屋。/ 元々の有恒寮は 敷地の東南の鉤地に建てられた大きな建屋だったようです。)



ともあれ ここに学び始めの子供達が集められ、池越しにお兄さん達が学ぶ講堂を見ていた~ んですねー。


内側から見た 御成門。

今は南_ 小玄関の正面にありますが、これも移築された物で、元々は東の塀側にあったそうです。(お城側から来るには東に門があった方が便利。ですし、南側だと学生達の通用門に近すぎる・・・)


御成門_ 裏手から もう一度講堂の方を振り返ってー


_ 退出しました。


いやいや 見応えあった!

伊賀の人が教育に熱心であった事が伝わってきた。又江戸時代の「暮らし」についても学べ 面白かった。
(そうそう、江戸時代の藩校というと 孔子廟がつきもの、ですが、 伊賀の崇広堂には「初めから無い」のだそうです。敢えて造らなかった、事は それはそれで「メッセージ」となっていますよねー)


続いては、明治になって建てられた小学校「旧 小田小学校」を見に行きましょうー。