の南の溝は、

調べたところ「九名井(クメイ)」という古い用水路でした。

(↑千里川を斜めに渡る緑のラインが「九名井」)
江戸時代に 九つの(名の)集落を潤した事から「九名井」と綴られるようになったそうですが 室町までは(同じ音で)「久米井」と書かれていたといいます。
(が、なぜ「久米」なのか~ こちらの由来は 参考にした本:『とよなか歴史・文化財ガイドブック』には載ってないのでした~~~)
「九名井」を川下側に辿ってみましょう。


(↑って原田小学校の東側の流れの傍は歩けないのでー 南側を通りました)
(↓で、ここが小学校の南東の角)

(↓そこからは 用水路に沿って南へー)


流れに沿って歩いていくと、橋のたもとに立札がありました。

「原田井の洗い場」 (あれっ?九名井じゃなかったっけ?と思ったら ちゃんと説明されてました)

「原田集落の縁辺に沿って流れるこの水路は、遠く猪名川を水源とし、伊丹 尼崎から豊中にいたる広大な田畑を潤し続けた 猪名川流域で最大級の農業用水路でした。
奈良興福寺の門跡 大乗院に伝わる日記には、 寛正二年(1461)六車庄(ムグルマノショウ 後の原田)と 田能(タノ)の間でこの水路(久米井)をめぐる水争いが生じたことが記され、約550年前には存在していた事が分かります。
近世には、酒井・森本・岩屋(以上伊丹市)・田能(尼崎市)・勝部・原田・桜塚・曽根・岡山(以上豊中市)の九ヶ村に利用されたことから九名井とも呼ばれましたが、井親(イオヤ・ユオヤ / 用水の管理権を持つ団体)でもある原田村では原田井と呼ばれ 親しまれてきました。
水路の中に見える階段のようなものは じつは洗い場の後で、流れる水は村人たちの生活用水としても永く利用されたそうです。」
_ ですって。
↓文中の「階段のようなもの」は 酔芙蓉の陰になっていたのか よく解りませんでしたがー

ここで野菜などが洗われていたのだろうなー と想像。
九名井 いや 原田井は ここから更に南へ下っていましたが、、、


道が無く ここまでしか追えませんでした。
ので、再び用水路が道脇を流れるようになる地点まで移動します。

↓「原田元町2丁目公園」。

↓公園の南側に水門がありました。

(角度を変えてー)

水はありません。

でも猫がいました・・・^^;)

細い方の用水路を辿ります。

(↑橋の下が用水路)
道なりに行くと 供養塔やお地蔵様が並ぶ一角がありました。

地図上に「寄地蔵」と書かれているのは ここですねー?


(「寄地蔵」と書いて「よせ・じぞう」/ お地蔵様を集めて祀る場所を この地域ではこう呼ぶようです。熊野町にも「寄地蔵」と書かれたポイントがありますから。調べたらもっとあるかもー)
↓原田井はこの先も 高台の縁をなぞるように流れて行きます~。。。

地図で見ると 「青い線」が曽根南町まで繋がっています。暗渠までは確認できませんが 多分豊島公園の南の流れに合流し 最終的には神崎川にそそぐのでしょう。
さて、続いては 用水路が千里川の「下!」を流れる地点を見に行きます。

(↑猫のいた分岐点から 西へ歩いています。 阪神高速池田線の下を潜って尚行くと千里川に出まーす。)