厳島神社の多宝塔と大願寺 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

大聖院(ダイショウイン)から多宝塔へは (↓この写真の)手前の道を左へ行けばよかったのですがー

亭主が 「穴子飯のふじたやが開いてるかどうかチェックせねば」というので 坂を下りましたー。

でふじたやさんはー

お休みでしたー(残念><;)

という訳で宝物館角を曲がってー



大願寺側から上がる石段を行く事に。

(多宝塔は 街中からは結構目立つのですが 近いと見えないんですねー。/ ある事を知ってないと上り口も見落としてしまいそう・・・)

↓位置関係 こんな感じ。


後は道なり。



少しずつ視界が開けていきます。

(↑宝物館 ↓大願寺越しに大鳥居)



多宝塔の屋根が見えてきた。

石段、上りきったよ。

(_時に このあたりが 安芸勝山城があった場所、らしいー)


振り返ると 目指していた多宝塔がありました。

桜の木に囲まれているー。

そばの説明板によると 1523年に建てられたそう。(へーてっきり1555年の厳島の戦いの後で建てられたものかと・・・)


他の箇所の塗りははげかけているのに この蟇股(カエルマタ)の梵字は新しい・・・。何か訳があるのかしら?


(時に塔の四面の梵字は四方仏(≒方角)を現してるんですって。/ 因みに上の字はウンで阿閦如来・東、 下の字はキリークで阿弥陀如来・西。)

多宝塔は真言宗のお寺の塔。元々は先程寄った大聖院(ダイショウイン / 真言宗御室派)に属していたそうです。が 明治の神仏分離令で 厳島神社 に属する事になり、中にあった薬師如来像は 今は麓の大願寺に移された、との事。 ((すると 今塔は からっぽ? ランドマークとしてのみ建ってる、のー?))

塔、といえば 厳島神社の向こうの丘の上に建つ五重塔も有名。


あの塔 元々は大聖院(ダイショウイン)の子院:金剛院の塔だったそう。ですが、今は隣接して建つ千畳閣= 現・嚴島神社末社豊国神社 に属しているそうです。 そして 塔内にあった仏像等は今は大願寺にー・・・。


さて、では続けて 大願寺の写真を貼りましょう。(実際に訪ねたのは前日、干潮時の浜を歩いた後、なんですが)

↓厳島神社の出口の先の橋を渡って 御手洗川(ミタラシガワ)を越えるところ_。

(↑丘の上に ちら と多宝塔の先が見えてます)

↓橋を渡った先、右手に現れるのが大願寺・厳島弁財天本堂 の門。

(かつて厳島神社内にあった秘仏の弁財天が 明治の神仏分離令で社殿内に置けなくなり、 この寺で預かる事になった、のだそうー。 神仏分離令って想像以上の「仕分け」を強制するものだったんですね・・・)

↓説明板。/真言宗に属し 室町時代末期に厳島神社の修理造営権を握り(中略)神社やその関連施設の建造・復旧に当たった。だけでなく職人集団を率いて他地の社殿の修理造営も手掛けていた~。 (へーっ)


門の先に本堂。(左手に 伊藤博文御手植えという「九本松」。)

入口前の大提灯。正面には「厳島弁財天」の文字。

横には「大願寺」。/扁額には「厳島本願大道場」の文字。

(上でも打った話ですが_
神仏分離令で 神社内にあった仏像、 神社に属す事になったお堂(千畳閣)や仏塔(多宝塔+五重塔)内の仏像を沢山預かっているお寺さんです。 色々あれこれ・・・ 合掌)

改めて九本松。


浅い池の中に小島が作られ祠が置かれています。 てっきり弁財天か と思ったら「龍神」だそうです。(本尊物のお使い なんですって)


護摩堂。(先代のお堂は明治の初めに焼失しており、今建つのは平成18年に再建されたもの。中には4mを越えるという大きな不動明王像があるそうですー)


(↑御手洗川側から見た護摩堂)

宮島観光協会さんの頁で読んだのですが↓
http://www.miyajima.or.jp/sightseeing/ss_daiganji.html
今の大願寺本堂は 元の僧坊だそう。 大願寺さん 元々は厳島神社を囲むような広い境内地に「厳島伽藍」と呼ばれる沢山のお堂や施設を持っていたんですって。又、秀吉が建てさせた千畳閣(ただし 太閤が亡くなると工事は中断し未完のままになった・・・そうな)が本堂になる計画もあったらしく、 ビックリ。

大願寺側から見た 厳島神社の出口。



(江戸時代の参拝客は 大願寺さん近くの浜に上陸し お寺でお風呂を頂いて 着替えてから ↑この「現・出口」から神社へ渡っていった そうなー へー)


では 千畳閣+五重塔 のある「塔の岡」へー。/ つづく。