長興寺北二丁目の長興寺・住吉神社 | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

市内に長興寺という地名があります。バス停もあります。

でも地図を見ても長興寺というお寺は載っていません。

この辺の神社やお寺は 荒木村重が織田に逆らった時の戦乱で沢山焼かれているので、「きっと長興寺も焼失したお寺の一つなんだろうな」と思っていました。

が、長興寺北二丁目の住吉神社に行ったらー

(↑「長興寺北1」という交差点から東へ歩いています)


「長興寺 住吉神社」という名称を使っておられる!


という事は 明治の廃仏毀釈で寺院は消滅したけれど 境内の神社が残った~ というパターンなのでしょうか?

どこかに お寺 の名残りがあるかな?

↓社記_住吉神社の御祭神は、住吉大社と同じく、住吉三神と神功皇后の四柱。他に 相殿(アイドノ)の御祭神として 天照皇大神 春日大神 八幡大神 月読大神、 末社の御祭神として 愛宕大神 高靇(←雨冠に龍/ タカオカミ)大神 の神名が書かれています。 

↓社記の後ろの立札には「住吉神社 石造 宝篋印塔(ホウキョウイントウ)基礎」について書かれていました。(下に写真も。) 一段高くなった場所の奥の墓所にある物の事のようです。一応仏式の物ですが、 長興寺 というお寺があったという証拠とまでは・・・。

↓墓所は この写真の右奥にチラと見えているあたり、かと。/ 時に手前の大きな石は・・・何でしょう?以前使われていた手水鉢、とかかしら?


では手を清め_

本殿へ伺ってみます。

こちら_創建について詳しくはわかっていないそうですが、1514年に足利将軍家から「祈雨の御願」があったといいますから、その当時すでに雨乞いの御利益があると京にまで名が聞こえていた、という事でしょう。 1578年に織田の荒木を攻めで社殿を焼失。(ああ、やっぱりねー) 1674年に(やっと?)再建されたとの事です。元々は今の履正社高校の北側あたりに建っていたもよう。

↓横から見たところ_。(右が拝殿、左が神殿、です)

平入りの拝殿に 妻入の神殿、ですねー。

神殿横の案内板に 「鍋いただきの神事」について書かれてる。

 鍋いただきの神事
旱天(カンテン=干天)の祈雨祭には その年 この村の中に嫁いだ女の役として 鍋を頭にいただき 住吉の神に祈る旧例がありましたが かたちの見にくさを嫌って中止されました。 / また一説には 村の年長者が斎戒沐浴して 簑笠をかぶり 深夜神燈を滅して神殿に進み 鍋をかぶり 夜通し交代で祈請すると霊験があったと伝えられています。 その祈雨祭には蜻蛉が多く来て供物を喰い去る と言はれ「長興寺の鍋被り」と言い伝えました。」(補足/『とよなか 歴史・文化財ガイドブック』には 「鍋被 (なべかつぎ)」と載っています)

「長興寺の鍋被り」ですかー。(おー 「長興寺」 が出てきましたよ。/ただ、この長興寺が 単なる地名 ではなく 寺名 という証拠とまでは・・・ ) 

境内には末社の他ー

(↑愛宕さんと 高靇さんです)
↓こんな石塔がありました。

長興寺にゆかりある物かしらー? と思ったら ・・・

役行者(エンノギョウジャ)のようです。(被り物をし、錫杖を持ち、高下駄をはき、両脛をあらわに座っている、んですね)/ 下の石に「箕面山 菊水講」と彫られていますから、行者講が 箕面山の瀧安寺(←役行者が開いた道場)へお参りする人のための道標として据えた物でしょう。(元々は辻にあったかもしれませんね)

~ とこんなのが住吉さんの今の境内地、です。


上で載せた 「鍋いただきの神事」に出てくる 「村の年長者が斎戒沐浴して~」というのは 近くの皿池(南桜塚四丁目)の事らしいので、行ってみましょう。

長興寺北二丁目の住吉神社と 南桜塚四丁目の皿池は ほぼ はすむかい、なのです。↓駐車場の奥に見えるのが 皿池公園、ですもん。(画面ほぼ中央)

が。がーん。。。/門が閉まってました・・・


一度正面から退出して 改めて皿池公園へ向かいますー^^;) (つづく)



*追記*Yahoo知恵袋に 
豊中市内には、住吉神社が数社ありますが、長興寺住吉神社が明治初期の廃仏令で廃寺となった長興寺です。(長興寺住吉神社=長興廃寺)
と載ってました! (文中の市のHPへのリンクが切れているのは残念ですが) すっきり!
ありがとう、residents_of_osakaさん!