高野山 壇上伽藍(ダンジョウガラン)(+大門) | おだわらぐらし

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高野山観光二日目は、泊まった宿坊の向かいの「壇上伽藍」の見学から始めました。

因みに「壇上伽藍」というのは 弘法大師が高野山の造営に際し 最初に手掛けられた伽藍 だそうです。(なんと!てっきり高野山は「金剛峯寺」から始まったのかと思ってましたよー)

まずは 高野山の総本堂になる「金堂(コンドウ)」へ。
(↓北側から見ております / 単純に泊まった宿坊が伽藍の北にあったから、です)

大きい!(写真ではおわかり頂けないでしょうが)

南側で声がするので行ってみたら_ お坊さん達が声を揃えてお経 (真言かな?)を合唱していました。 

金堂の北東には 高野山のシンボル「根本大塔」があります。

この塔も想像以上に 大きい! です。

(内部を拝観して又びっくり。塔内には仏像が安置され それを取り囲む柱には菩薩が描かれ~ 胎蔵界・金剛界 二つの曼荼羅が3Dで表現されていたのです。(二つの曼荼羅は インドで、別の時代、別の地域で、別の経文から考え出され、中国にも別々に伝わったものですが、 大師の師匠;恵果阿闍梨という方が統合された、んですって。)

根本大塔の西、金堂の北に 松 がありました。三本の松葉を持つ「三鈷の松」_ 大師が唐から 伽藍建立地を占うために投げた三鈷が引っかかっていた松(の子孫?)と伝わっています。



根本第塔南の鐘楼 (一日五回 計108鳴らされる鐘は「高野四朗」の名を持つそうな)。その奥に見えるのは納経所。


納経所の南西_ 金堂前の中門(チュウモン)。(再建工事中で通れませんでしたが、 ここが伽藍への正門 になります。長く礎石を残すだけになっていましたが 来年の開山1200年祭にあわせ 往時の姿が再現されることになったようです。)

この六角のお堂は経蔵です。斜め下に突き出しているバーは縁の下に取り付けられた大きな輪の「取っ手」。これを押してお堂を時計回りに一周すると 中に納められている一切経を一回読んだのと同じ功徳が得られる、そうです。(一種のマニ車ですね?)/ このお堂を造らせたのは鳥羽天皇の妃、得子。この功徳により 得子は女でありながら例外的に死後高野山に葬られています。(NHKの『平清盛』では保元の乱の原因を作った悪女として描かれていましたが) 得子が、納経の法会(ホウエ)費用賄いに紀州荒川荘(アラカワノショウ)が寄進したため、経蔵は「荒川経蔵」、納められた紺紙に金字で書かれた一切経は「荒川経」と呼ばれているそうです。(色々「へ~」)


三鈷の松の北側にあるのは御影堂(ミエドウ)。真如親王(=高岳親王)が描いた御影(弘法大師の肖像画)が安置されているそうです。(非公開)


御影堂の西には准胝堂(ジュンテイドウ)-奥・ 孔雀堂-手前 がありました。それぞれ准胝観音・孔雀明王を祀っています。(孔雀に乗る明王像、カッコイイです)

孔雀堂の西には、壇上伽藍の西の端に建つ「西塔(サイトウ)」。(根本大塔建立に続いて建てられたそうです)

(↑塔前の灯篭は華岡青洲が寄進したものとか)
当然(?)、伽藍の東端には「東塔」が建っています。(が、建立は白河上皇の発願で、大塔・西塔より時代的には新しい物だそうです)

この東塔から東へ歩くと 金剛峯寺の前へ出るのですがー
その前に 壇上伽藍の西の「大門」へ行ってみました。
(↓壇上伽藍側_東から見た大門)

(↓西から見た大門)
これが、巡礼者から見た 高野山への入り口 ですね?(もっとも創建時の山門は これより下った所で、形も「鳥居」だたそうですが)

今は門の前は大型の観光バスも走る広い通りですが、かつては ここまでは細い巡礼道があるきりだったんですねー?
↓門から見た 高野山の西側_。この山の連なりは蓮の花びらに例えられます。つまり高野山は蓮の中心・・・。(曼荼羅の世界ですね?)


この後は 金剛峯寺へ~。(つづく)