今回歩いてみた甲部歌舞練場裏、もそう。
↓花見小路から 歌舞練場のあるブロックの北の道を東へ~

↓突当りのT字路を南へ~

(↓勝手口にも対の盛塩がー)

(↓玄関に粽(チマキ)は多いけど 笑門(ショウモン) も時々見かけました。 (余談ながら、これは元々蘇民将来に由来する物で「将門」と書いていましたが、平将門を連想させるというので「笑門」と書くようになった、のだそうです))

その先の道を東へ歩きます。

正面の建屋 面白い。トンネルみたいになってます。(建屋に通路をつけたのか 通路の上に部屋を作ったのか・・・)/ (後から打ってます / これは「路地(ロォジ)」と呼ばれるものだそうです。_zaiさんに教わりました // 更に調べたら、京都の路地(ロォジ)は基本的に行き止まりで 一般に使われる細い道 の意味の路地(ロジ)は京都では「図子(ズシ)」と呼ばれるとわかりました。へ~っ でございます)

軒の下に芸妓さんの名札が並んでいる。奥は置屋さんですねー。

で、その突当りを南へ折れると、道はゆるい上り坂になります。

上りきったあたりに 崇徳天皇の御廟がありました。
えーっ こんなところに? です。全く知らずに来てしまいました・・・

ええ、この先の金毘羅さんに 御祭神として祀られているのは 知ってましたが、 そうですか ここに御廟が・・・。 / 因みにこの奥は歌舞練場です。華やかな祇園のシンボル的建物と背中合わせで 天皇の御廟 それも崇徳院の御廟があったとは・・・

崇徳天皇 という方は_
父に愛されず 帝位を異母弟に奪われ 保元の乱では同母弟と戦い 負けて四国に流され~ 非常に大きな恨みを抱いて亡くなりました。
死後は 金毘羅様に祀られています。
(一般には 百人一首で有名な「瀬をはやみ~」という歌を詠んだ方 として有名でしょうか)
この御廟は、崇徳院から寵愛を受けた阿波内侍(アワノナイシ)が 院の死後その遺髪を請い受けて塚を築いた場所、と伝わっています_つまり もともとは私的な祀り処だったんですね。 が、平安時代に 崇徳院の祟りを畏れ慰霊するために建てられた粟田宮は 長い年月のうちに失われ、江戸末期にはここが京都では唯一の廟所になっていたそうです。
今は 明治天皇が御所の近くに建てさせた白峯(シラミネ)神宮が 崇徳天皇を御祭神としてお祀りしていて、 この御廟も白峯神宮が管理しているようですね。毎月21日に「月次祭」が行われている_ と 立札に記されています。

格子から中を覗いたところ_。甲部歌舞練場の側からも入れるようですね?(歌舞練場は明治時代に廃仏毀釈で整理された 建仁寺の塔頭跡地に作られています。もしかしてここも元々は建仁寺がもっていた土地かしら???)

御廟所前の道を南へ下ると鳥居があります。

鳥居を潜った先に・・・又鳥居。

__ この向こうは安井金毘羅宮境内、です。 (つづく)
<余談>
阿波内侍という人は_後年尼となり 建礼門院(清盛の娘 徳子)に仕えたそうで、お墓も寂光院の近くにあるそうです。 そういえば平家物語に 後白河院が大原に建礼門院を訪ねる場面がありますが、あの段で 後白河院に「抑も汝はいかなる者ぞ」と問われ 涙にむせぶ老いた尼が出てきましたっけ・・・(ググりました)彼女が阿波内侍ですねー。 色々「へ~っ」です。