前回の記事は我ながらみっともない笑。個人的感想でしかない。まさに詭弁。おっと俺はそもそも詭弁論者であった。
それはさておき、何と…こんなしょうもない記事を…読んでくれた方がいたのです(まだ2人だけど)!これは感動。ありがとうございます。そして一人はいいねしてくださって、もうほんとありがとうござんす。これからもよろしくです。
今日は少しまじめに。テーマは性善説か性悪説か。私は性悪説派だ。例えば、朝のラッシュ時の駅の様子。皆が我先にとずんずん歩いていって、人に多少ぶつかろうとも謝らない。それはなぜかというと、そこでそのような振る舞いをしても自分にとってデメリットがないからである。つまり、朝のラッシュですれ違う人との関係は、すれ違うその一瞬だけのものなので、今後その人との関係が悪くなって自分の不利益となる心配はないから、気をつかうこともないし、見返りを望めないから親切にもしない。だから、朝のラッシュ時の様子をこのように考察すれば、人は、自分の利益不利益に関わらなければ善を行わないと言えるので、性悪説が正しいと言える。
別の例を挙げよう。陰口を叩いたことのない人はそうそういないだろう。普段ある程度の関わりを持つ人に対してすらこんなことをするのはなぜだろう。それは、陰口を叩き合っている連中内での仲間意識を楽しんでいるのだろうと考えられる。いずれにせよ、性善説が正しければこんなことはしないはずである。つまり、人は生まれながらにして完全悪であるとまでは言わないが、多少の悪を持っていると言えるのではないか。
人は生まれながらにして善であるが、環境が、大人がそうさせたんだ、という意見を言う人がいるかもしれない。しかし、幼児はわがままである。これは自らの利益不利益を尊重する意志の表れといえる。もちろん、幼児のわがままを許容しない大人はいないが、幼年期や少年期でのいじめや仲間はずれはどうであろうか。大人はそのようなことはいけないと教えているはずだが、それでも起こってしまう。環境がいじめを促進する例も思いつかない。
ただ私は「悪」を絶対悪だとは思わない。必要悪であることもあるのだ。それは、自己防衛本能である。何かの大惨事の時に、多くの人は赤の他人には気をつかうことなく、我先にと逃げるだろうが、これは自らの命を守るために必要な行動と言える。人間も所詮は動物なのだから。
次に性悪説の例外を挙げよう。それは、震災などで大切な人を失った方であろうか。その件をきっかけに心の底からの善を行っているように思われる。そこには本当の絆がある気がした。震災当時メディアは「絆」という言葉を好んで多用したが、あれは本当に嫌悪感を覚えた。被災者の本当の苦しみを知らないのに安易に「つながっている」なんてよく言えたものだ。しかし、それは私も同じことなのである。
少し話が脱線したが、結論は、性悪説の方が正しいということである。
冷凍都市の暮らし by向井秀徳